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7 襲撃


  それからほとんど毎日、ふたりは半時間ほど林で立ち話するようになった。 アレックスはルイーズを子供扱いして、 《めがねちゃん》としか呼ばなかったが、ルイーズはその仇名に満足していた。
  (仇名って付けてもらったことなかったな)
  楽しい気分で家路に着くたびに、ルイーズは思う。 これまでは、ただの優等生だった。 尊敬はされるが、 親しみは持ってくれない。 だから仇名なんかつかない。
「アレックスは兄さんみたい」
  口に出して言ってみた。 それだけで胸があたたかくなった。

  その日、ルイーズはレッスンが長引き、薄暗くなってから小道にさしかかった。
  もうアレックスが近くにいる時間帯ではないので、ルイーズは急いでいた。 不安なのに、前方で囁きあう声が 聞こえたような気がして、足が止まった。
  また、いじめっ子だろうか・・・・引き返すか、先へ進むか、少し迷った。 でも、戻ると大回りの道になって、 30分はかかってしまう。 思い切ってこの道を走っていくことにした。
  草むらを通りぬけようとしたとき、足元でなにかがガサッと動いた。 心臓がちぢみあがって、ルイーズは 立ちすくんでしまった。
  その何かは、ヘビのようにそろそろと移動していく。 眼をこらして、男の足の片方だと、ルイーズは悟った。
  その足は、目立たないように草の下に引っこもうとしていた。 だが、動いたあとに、黒っぽい筋がくっきりと残った。
  ルイーズは思わず息を呑んで近寄った。 その筋は血の跡だった! 驚きのあまり怖さを忘れて、ルイーズは草むらに 踏み込んだ。
  木の根元に背中をつけて足を投げ出していた男は、ルイーズを見ると急いで顔を伏せた。 だが ルイーズには誰か一目でわかった。
「アレックス! 怪我したの?」
  観念して、アレックスは顔を上げ、青ざめた頬にかすかな微笑を浮かべた。
「どじった」
  ルイーズは、すぐ彼のそばに膝をつくと、スカーフを首から取った。
「すぐに血を止めなくちゃ。 怪我はどこ?」
  アレックスはあわてて体を動かした。
「よせよ。 大丈夫だよ」
「足の上のほうなのね」
  ルイーズはやさしく、しかし断固として彼を押さえつけた。
「足ぐらい見せたってどうってことないわ。 水着きて泳ぐこと考えてみて。  さあ、ナイフ貸して」
  アレックスはきょとんとした顔で見返した。 ルイーズはもう一度繰り返した。
「いつもナイフを持ってるんでしょう? 出して」
  至極のろのろと、アレックスはポケットからナイフを出した。 ためらう彼の手から、ルイーズはさっと ナイフを取り、ズボンの裾を切り裂いた。
  傷は膝の少し上だった。 相当深く切られている。 心配で泣きそうになりながらも、ルイーズは表面 平静を装って、スカーフで傷の上を固く縛った。 さすがに痛かったらしく、アレックスは顔をしかめていたが、 手当てがすむまで弱音を吐かなかった。
  だが、縛り終えたとたん、彼はぐらっと前にのめった。 出血多量と痛みで意識が遠のいたらしい。 ルイーズは、 危うくアレックスを抱きとめて、地面で頭を打ち付けるのを防いだ。
  そのまま、ルイーズはしばらくアレックスを抱いていた。 この辺はお屋敷ばかりで、大声出してもたぶん 誰にも届かない。 気絶している彼を置いて助けを呼びに行くのは危険だった。 喧嘩相手がいつ戻ってくるか 分からないから。
  そのうち周囲は真っ暗になった。 時々ルイーズはアレックスの膝に手をやって、血がまだ出ているかどうか 確かめた。 幸いなことに、手当てをしてから数分で、出血はほぼ完全に止まった。 熱が出る気配もなかった。
  暗がりでルイーズはアレックスに寄り添ってじっとしていた。 気を失っている青年がゆるやかに呼吸するたびに、 開いた上着の間から熱い体臭が匂ってくる。 5分もしないうちに、その匂いはルイーズの心の奥に 焼きつき、消えない記憶となった。
  10分……15分……ルイーズは時の観念を失い、アレックスの肩に頭を寄せて、中空に上がった月を見て いた。 二人して迷子の仔犬になった気分だったが、不思議に不安や恐れはなかった。
  やがてアレックスの体に力が戻ってきた。 彼が首を振り、かすかに腕を動かしたので、ルイーズは その顔を覗き込んで小声でささやいた。
「どう? まだ痛む?」
  ぼんやりしていた灰色の眼が、次第に焦点を定めた。
「いや……ここはどこだ?」
「林の中よ」
「林!」
  アレックスは絶句し、あわてて周囲を見回した。
「ルイーズ! 大変だ! 君のうちの人はきっと大騒ぎだよ!」
  ルイーズは落ち着きはらって答えた。
「今日はレッスンのおさらいで遅くなると言ってあるし、母は巡業でいないから、誰も心配しないわ」
  アレックスは表情を引きしめてルイーズを見た。 それから強い調子で言った。
「いいか、めがねちゃん。 そんなことをべらべら男にしゃべるんじゃないぞ」
  ルイーズは困ってそっとアレックスから腕を引いた。
「あなた以外には話さないわ。 もちろん」
  明らかにアレックスは途方に暮れた。 どう考えたらいいか見当がつかない様子だった。
「オレは男じゃないってのか?」
  ルイーズは思わず笑い出した。
「あなたは男よ! あなたぐらい男っぽい人って知らないわ。 でも私たち友達だし、あなたは 今大怪我をしているし、それに……」
  あなたは私を女の子なんて思ってないでしょう? と言いかけて、ルイーズは言葉を変えた。
「私あなたを信じているから」
  アレックスは唸った。
「俺を? よせよ。 さあ、立たせてくれ。 なんとか家まで歩かなきゃ」
  ルイーズに片側から支えてもらって、アレックスは何とか家の裏手まで歩ききった。 そこで 彼はルイーズにささやいた。
「通用門から入って右側に運転手の家がある。 クラレンスというんだ。 呼んできてくれないか?」
  言われた通り、ルイーズは木立を抜け、白っぽい平屋のドアを叩いた。 すぐにドアが細めに開き、一条の 光が地面に伸びた。
  覗いたのは、若いがしっかりした顔立ちの女だった。
「どなた?」
  ルイーズは早口で言った。
「近所の者です。 アレックスさんが怪我をしたので連れてきました。 今裏門のところに座って います。 疲れてもう歩けないんです。 クラレンスさんがいらしたら一緒に来て助けてください」
  奥から足音が近づいてきて、シャツの上にコートを引っ掛けた真面目そうな男が現れた。 彼はきびきびと ルイーズに礼を言い、彼女の案内でアレックスを見つけると、すぐにかつぎあげて家に運び込んだ。
  彼の妻らしい若い女に送られて、ルイーズは通用門まで出た。 するとクラレンスが後を追ってきた。
「お嬢さん、家までお送りします」

  クラレンスは、非常に無口な性質らしく、道を歩いている間は一言もしゃべらなかった。 だが、 ルイーズの家の前に着くと、きちょうめんに帽子を脱いで、折り目正しく挨拶した。
「アレックス様を助けていただいて、ありがとうございました。 後日改めてお礼にうかがいます」
  ルイーズはあわてた。
「いえ、結構です。 大したことしてないし、誰にも知られたくないんです」
  クラレンスは少したじろいで、帽子を手の仲で回した。 それから静かに、
「おやすみなさい」
と言って、歩み去った。

  部屋に入ってドアを閉めたところで、ルイーズは初めて、アレックスのナイフを持ってきてしまったことに 気づいた。 今度会ったときに返そう、と思いながら、ルイーズはそっとそのナイフを指で撫でた。


8 思わぬ誘い


「あんな子、待つことないわ。 おなかが空かないというなら、食べる気になるまで放っておけばいいのよ」
  いらいらした様子で、テーブルを指で叩きながら、ナディア・オーウェルが言った。 返事の代わりに、 デレク・オーウェルは新聞をたたんで席を立ち、二階に上がっていった。
  その背中に、ナディアは高い声をぶつけた。
「そうやってあなたが甘やかすから、アレックスは際限なくつけあがるんだわ!」
  長男の部屋をノックしながら、デレクは眉を寄せていた。 二度ノックしても返事がない。 デレクは溜め息をつくと、ドアをあけた。
  アレックスは窓辺に立っていた。 父が入ってきてもふり向きもしない。 デレクは部屋の中まで歩み入って咳払いした。
「アレックス、こちらを向きなさい」
  そう言われて、ようやくアレックスはゆっくり向き直った。 デレクはもう一度咳払いして話し出した。
「こういう状態はよくない。 不満があるなら、わたしにはっきり言いなさい」
「別にありません」
  短い返事だった。 感情のない単調な声が耳に届くと、デレクの眼が一瞬鋭くなった。
「実はよくない噂を聞いた。 おまえ、大きなナイフを持ち歩いているそうだな」
  アレックスはまったく無表情で見返していた。 デレクは咳払いした。
「すぐ出しなさい。 危険な話だ」
  視線を合わせたまま、アレックスはポケットを探った。
  その手が止まり、眼が動き、かすかに表情が強ばった。
「……なくしました」
  息子の顔色を探って、デレクは眼をかすかに細くした。
「そうか。 それではいい。 ともかく、食事は食べにきなさい。 体に悪いよ」
「腹がすかないんです」
「昨日もおとといもそう言って食事に出てこなかったじゃないか。 どこか具合が悪いのか?」
「いいえ」
「まだ足が痛むか?」
「もうすっかり治りました」
  アレックスは再び父に背を向けた。 取り付くしまがない。 だが反抗するわけでもないので手のほどこしようがない。
  デレクは唇をぎゅっと結んで部屋に視線を走らせた。
  その目に、ちょっと意外なものが映った。 机に置いてある分厚い紙だ。 その紙には、手のひらほどの 大きさの顔が描かれていた。 細心の注意を払って陰影をつけ、今にも動き出しそうに生き生きした表情を持っている。 デレクは絵に見入りながら、大きな声で言った。
  「なかなかうまいじゃないか、これ」
  アレックスの肩がぎゅっと引きつった。 そしていきなり体を回転させると、デレクが何を手にしているか 見てとったとたんに虎のように飛びついてもぎ取った。
「さわるな!」
  息子の怒りに触れたのを知って、デレクは退却した。
「落ち着け。 別に汚しはしなかっただろう? とにかく、食事だけはしなさい」
  廊下を歩きながら、デレクは首をひねった。 アレックスは風変わりなモデルを選んだものだ。 大人の 画家なら魅力的な素材と思うかもしれないが、生意気盛りの少年はもっと表面的な美しさを 描きたがるのではないだろうか。
「どこかで見たことのある娘だ」
  デレクは考え込んだ。

  夕食の席でも、デレクは考えつづけていた。 塩を渡してくれと夫人に催促されて顔を上げると、 デレクは次男のショーンに声をかけた。
「ショーン、おまえ知っているか? たぶん金髪で、口元がかわいくて、大きな眼鏡をかけている、 おまえぐらいの年の女の子なんだが」
  きちんとナプキンを使って、まじめくさって食べていたショーンは、顔を上げた。
「金髪で眼鏡の子なら、僕が知ってるのはルイーズ・バーナビーだけです」
「ルイーズ・バーナビー?」
  ショーンはしかつめらしく答えた。
「はい、グレン通りに住んでる子で、お母さんはグロリア・ケントです」
「ブロードウェイの大女優の?」
「はい、そうです」
  デレクは思わずつぶやいた。
「母親似ではないようだな」
  ナディア夫人が思い出して声を上げた。
「ルイーズ・バーナビー! 聞いたことあるわ。 学校始まって以来の優等生だそうよ。 本を読みすぎて 近眼になったのね、きっと」
「彼女は遠視です」
と、ショーンがそっけなく言った。 ナディアは少したじろいだが、すぐ別のことを思い出して意気ごんだ。
「でも、お母さんは女優にしたいらしいの。 役者に高等教育はいらないと言って、上級学校には 入れないつもりらしいわ。 器量が悪いとすると、かわいそうな話ね」
「優等生……」
  デレクはますますわからなくなった。
「気さくな子かね?」
「とんでもない」
  と、ショーンが口をとがらせて言った。
「気取り屋ですよ。 勉強ばかりしているという噂です。 無口で、近寄りにくいんです」
  少年の声に、デレクは微妙な影を感じ取って、改めて顔を見直した。
「おまえは嫌いなのかい?」
  ショーンの整った顔に赤味がさした。 少年が答える前に、ナディアが話を引き取ってしまった。
「それは好きになれないわね。 賢い女の子なんて。 女の子は美人で少し成績が悪いくらいの方がかわいくていいのよ」
  ショーンは相槌を打たずに、黙ってサラダを食べていた。

  数日後、ルイーズが学校から帰ってくると、道の横にショーンが立っているのが見えた。 ルイーズは そのまま行き過ぎようとしたが、ショーンは彼女に微笑みかけた。
「こんにちは、ルイーズ、僕を覚えている?」
  ルイーズは言葉少なく、ええ、と答えた。
  ショーンは、いっそう優しく話しかけてきた。
「重そうだね。 バッグ、持ってあげよう」
「いいの」
  閉口して、ルイーズは学校用のバッグをしっかり抱きかかえた。 ショーンはそれでもあきらめずに並んでついてきた。
「君、学校で一番なんだって? すごいな、小学校のときからよくできたけど、相変わらずなんだね」
  ショーンを振り切ろうとして、ルイーズはどんどん速足になった。 彼女がそっけないのを見て、ショーンは 切り札を出すことにした。
「君、兄貴の友達なんだってね」
  ルイーズは立ち止まった。 またたく間に首筋が赤くなった。 すかさずショーンが申し出た。
「おいしい喫茶店があるんだ。 ふたりで兄貴の話でもしようよ」
  最後の言葉が魅力だった。 ルイーズはためらいがちにショーンについて、生まれて初めて喫茶店に入った。 
  クリームパフェはおいしかった。 固くなっているルイーズに、ショーンはいろいろと気を使った。
 ショーンは一向にアレックスの話を口に出さない。 たまりかねたルイーズは、思い切って尋ねた。
「お兄さんの傷の具合はどう?」
  ショーンはすばやくルイーズを見た。
「怪我したって知ってるんだね」
「ええ……」
  ルイーズは言葉少なくなった。 ショーンはさりげなく続けた。
「もうすっかり治った。 手当てが早くて幸いだったと医者が言ってたよ」
  ルイーズはほっと胸を撫で下ろした。 すると今度はショーンが探るような目で尋ねた。
「手当てしたの、君なんだね?」
  ぎょっとして、ルイーズは思わず目を逸らした。 ショーンは重ねて訊いた。
「よく兄貴を助ける気になったね。 みんな怖がってるのに」
  ルイーズは口の中でぼそぼそと答えた。
「人通りの少ないところだったから、放っておけなかったの」
「それにしても、よく手当てさせたなあ」
「あまりおとなしくもなかったわ。 足が痛くて逆らえなかったんでしょう」
「兄貴、何か言ってた?」
「何かって、何を?」
  ショーンはためらった。
「つまり、誰と喧嘩したかとか」
「別に」
「そう」
  ショーンがちょっと黙ったので、今度はルイーズが尋ねた。
「私が手当てしたって、アレックスから聞いたの?」
「いや……」
  珍しく口をにごすと、ショーンは立ち上がった。
「送っていくよ」
「いいの、寄るところがあるから」
  ショーンと別れて、ルイーズはほっとした。 妙に愛想が良かったが、ねちっこい生理的嫌悪を もよおさせる仕草は以前のままで、せっかくのクリームパフェも後味が悪かった。

  数日で、ルイーズはショーンに会ったことを忘れてしまった。 だが、ショーンの方は覚えていたらしい。  一週間ほどしたある日、ショーンが差出人になっている誕生会の招待状が届いた。
  優雅な模様つきのカードを穴があくほど眺めて、ルイーズは思わず声に出して言った。
「アレックスの誕生祝い?」
  あのアレックスがケーキのロウソクを吹き消したりするのだろうか。 想像しただけで笑いがこみあげた。
  行ってみたいな・・・・ルイーズは鼻歌を歌いながらカードをポケットにはさみこんだ。

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