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5 失意の森で


 ローズを失った家庭は、温かい陽だまりから一転して、木枯らしの吹きすさぶ真冬になった。
 なかなか船を降りたがらず、たまに帰ってきてもまず酒場に行ってしまう父と、前の半分も笑顔が出なくなって、 よく目を泣きはらすようになった祖母の間に入って、アニーは懸命に快活に振舞った。
  自分までが暗くなったら、家族はばらばらになってしまう。 アニーは人に隠れて泣くことを覚えた。 隠れ場所は、 農場の外れにある小さな森だ。 そのほぼ真ん中に丸い空き地がある。 アニーは空き地の木にハンモックを 吊って、空を眺めた。
  最近は、ひとつのことばかり思っていた。 母が医者に行かなかった理由だ。 アニーにはよくわかる。 恥ずかしかったのだ。
  医者が全部男だからいけないんだ、とアニーは思い始めていた。 東部の方では女の医者が出てきたらしいが、中西部では まだまだで、この辺りにはまったく一人もいなかった。
  医者になろう・・・・それがアニーの目標になった。

 クリスマスは毎年やってくる。 もう待っていないのに来る。 その年のイヴは、前年の思い出があまりに 美しかっただけに、家族にとっては苦痛でしかなかった。
 トムは相変わらずせっせと寄付をつのって、孤児院に送るプレゼントをためていた。 今度はジョーが 持っていってくれそうもないので、自分で馬車を駆って行くつもりだ。 トムはアニーを誘おうとした。
「ダンに会ってみないか? きっと驚くよ」
「なんで?」
  アニーは上の空で問い返した。 トムは面白そうに笑った。
「かっこいいからさ。 絶対惚れるって!」
  私は惚れたりしない、とアニーは一人つぶやいた。 限度を越えて人を愛するのは怖かった。 大好きな父親が日に日に壊れていくのを、ただ見守っているしかない自分。 無力感とあせりだけが心を占めた。
「私は行かない」
  断言すると、トムの表情が硬くなった。
「孤児院なんて興味ない?」
「そんなことじゃなくて」
  アニーは思い切って本当のことを言った。
「パパが嫌がるから。 自分はしょっちゅう留守してるくせに、ここへ帰ってきてるときは、私にべったりだもの」
 そのとおりだった。 ジョーは今では、娘を失うことを極端に恐れていた。 ボーイフレンドどころか、近所の男の子と立ち話していただけでも殴りかかろうとする。 アルコールが頭に回ってきているのだと、祖母が心配そうに話すほどだった。
  アニーは宝箱にしている鍵付きの引出しから、銀色の小さなものを出してきて、トムに渡した。 トムは、その小箱を、何度も引っくり返してみて、尋ねた。
「これ、なに?」
「オルゴール。 たぶん中国製。 こんなに細工が細かくて、おまけにからくりになってるの。 ここをずらしてこう押すと、ほら」
  ぱっと箱が四方に開いて、もう1つ金色の箱が出てきた。
「これがオルゴールの本体なんだ。 この蓋をあけると」
  中からワルツが流れ出てきた。 感心して、トムはしげしげと小箱を眺めた。
「これを、どうするの?」
「ダンにあげて」
「えっ? こんな高そうなものを?」
  アニーは寂しそうに微笑んだ。
「金と銀と、二つ持ってるの。 パパがお土産にくれたものなんだけど、私は金の箱の曲が好きで、だから銀のほうをあげる。
最近よく考えるの。 母親がいなくなっただけでこんなに寂しい。 初めから両親がいないって、どんなに大変なことだろうって。  トム、あなたも苦労したんだね」
「俺は……ここに来られたから」
「うん。 だからせめて、ダンにこれをあげたいの。 自慢できるものを1つでも」
  感動して、トムはまじまじと義理の妹を見つめた。
「大人になったねえ、アニー」
「そういうことを言うか!」
  たちまちアニーのパンチがトムの肩に炸裂した。 トムはあわてて飛びのいた。
「おい! 乱暴はやめろ!」
「えらそうにするからだ!」
「これでもアニーより2つ年上だぞ!」
「だから何だ!」
「わあーっ、よせ!」
  トムはあえなく、飼葉桶に落ち込んでしまった。


  翌日、プレゼントを届けて戻ってきたトムは、えらく興奮していた。
「アニー! アーニーー!」
「なに」
  テンションの低い状態でアヒル小屋から出てきたアニーは、たちまちトムに飛びつかれた。
「大ニュースだ! ダンに引き取り手が見つかったんだって!」
「本当?」
  思わずアニーも飛び上がった。
「どこ?」
「わりと近所らしい。 はっきりとは言わなかった」
「どうして!」
「養子先がいやがるんだって。 実子に見せたいんじゃないかな」
「そうか、なるほど」
  何にしても、めでたい。 アニーの顔が久しぶりに心からほころんだ。
「あのプレゼント、ものすごく喜んでたよ。 いつまでも大事にするって」
  いいときに渡した、とアニーはほっとした。


  季節は静かにすぎ、初夏になった。
  たなびいている草むらの中を、さっそうと『ブラックドラゴン』にまたがって走っていたアニーは、聞きなれない物音を耳にして、馬を濁足に戻した。 うねった道の向こうから、無蓋の馬車が近づいてくる。  乗っているのは、麦わら帽をかぶった若い男女たちだった。ギターを手にした青年を中心に、楽しげに歌を歌っている。 アニーが赤褐色の長い髪をなびかせて大きく手を振ると、若者たちも振り返してきた。
 口に手を当てて、アニーは呼びかけた。
「どこ行くのー!」
  カンカン帽のすらっとした青年が立ち上がって叫び返した。
「ピクニック! 君も来ないか!」
 アニーは笑って答えた。
「また今度ね」
  のどかな午後だった。 不吉な兆しは何もなく、アニーは久しぶりに明るい気分になって家に帰ってきた。
「ただいま! エラ?」
  祖母の返事はない。 代わりにかすれた泣き声が、寝室から漏れてきた。
  その泣き方には覚えがあった。 アニーは急に、居間が回りだしたような何ともいえない不快な気分におちいった。
  エラが、よろめきながら寝室から出てきた。 眼が落ちくぼんで、縁が赤くただれている。 アニーは戸口の柱を 掴んで後ずさりした。
「言わないで」
  エラは右手を差し伸ばし、しゃっくりするような声を出した。
「船が……沈んだの……ジョーは……」
  その瞬間、アニーは弱々しく祖母を突き飛ばした。
「嘘よ! パパは帰ってくるわ! 嘘つき!」
  絶叫して、アニーは外へ飛び出した。



  あまりの苦しさに息ができない。 あえぎながら森の空き地にたどりついたアニーは、ハンモックに乗る 力もなく、木の下に突っ伏して、死んだように横たわった。

  どのくらいの時が過ぎただろう。 普通の尺度では測れない時空間だった。 草を踏む足音に 顔を上げたとたん、アニーはこの世を離れ、不思議な世界に迷い込んだ。
  彼女の前に、幻がいた。 1年半前の父、母が息を引き取った直後、闇の中を音もなくアニーに近づいてきた、苦悩にやつれた父が。
「どうしたの?」
と、その幻は、ささやくように言った。
 アニーは、糸で引かれるように立ち上がり、ゆっくりと父に近づいた。 その歩みは次第に速まり、 遂には駆け足になった。 幻が消えないうちに捕まえなければ……
  奇跡は現実になった。 アニーは厚く頼もしい胸にすっぽりとはまりこんだ。
  (ああ、夢じゃない)
  そう思うと同時に、涙の洪水がアニーを襲った。
  身も世もなく、アニーは号泣した。 泣きながら、筋肉質の体をまさぐり、生きているのを確かめた。  幻はアニーの髪を撫で、頭に幾度も頬ずりした。
  ひとしきり泣くと、アニーは父の首に腕を巻きつけて、お帰りなさい、の挨拶をするために、 頬に唇を押し当てた。 その唇が流れて、相手の口をかすめた。
  次の瞬間、アニーは完全に動けなくなった。 男の口が、まともに口の上に重なったからだ。 熱い舌を感じて、 アニーの眼は飛び出しそうになった。
  罪の意識が頭を占領した。 しかし心はしびれるような喜びにあふれた。 逆らう力がなく、その気もなく、 アニーは幻に身をゆだね、激しいキスを続けた。
  遠くから、
「アニー!」
という呼び声が響いた。 同時に、アニーを抱いていた腕が強ばり、そして離れた。 アニーの眼には、 幻は一歩また一歩と夕日の中に姿を没していくように見えた。
  アニーは必死で駆けよって、相手の上着の裾を掴んだ。 そのとき、ようやくアニーの心の眼が開いた。  これは父ではない。 信じられないことだが、父そっくりの別の人なのだ。 雲の切れ間から輝き出した 太陽に照らされて、幻は、18,9のつややかな顔をした少年になっていた。
  アニーは喉のかたまりを飲み下した。 これこそ奇跡だ。 引き止めなければいけない。 この子は私のものだ!
  アニーは夢中でしがみついた。
  彼はそっとアニーをもぎ離そうとした。 ささやき声が言った。
「行かなくちゃ」
「だめよ!」
  アニーはますます強く抱きしめた。 少年は身をもがいた。
「お願いだ。 どうしても行かなきゃならないんだ」
  その声音があまりにも切羽詰っていたので、アニーは身を切られる思いで手を離し、すがりつくような調子で尋ねた。
「また来てくれる?」
  少年は、限りなく優しい光をたたえた紺色の瞳で、アニーを見つめた。
「うん……きっと、いつか」
「アニー!」
  トムの呼び声がすぐ近くで聞こえた。 アニーは振り向いて叫び返した。
「ここよ!」
  そして、急いで向き直ったとき、幻は消えていた。
  アニーは愕然とした。 考えをまとめる暇もないうちに、トムが息せき切って森に飛び込んできた。
  その真っ青な、心配しきった顔を見たとたん、アニーは先手を打った。
「どうしたの、そんな顔して。 私が自殺するとでも思った?」
  トムは、胸に手を当てて苦しげに言った。
「心臓が破れそうだよ。 バーンズさんの近くまで行って探し回ったんだぜ」
  申し訳なくなって、アニーは彼に手を差し伸べた。
「もう大丈夫よ。 ちょっと泣いたの。 それだけ」
  トムは不満そうだった。
「どうして俺に頼ってくれないんだ。 俺は君の兄だよ。 こういう時のために貰われてきたっていうのに」
  アニーは微笑んでトムの手を握りしめた。
「あなたはこれから大変なのに、私までもたれかかるわけにはいかないわ。 しっかりしなくちゃ。 パパは……死んだんだもの」
  トムは、さっと顔を上げた。 そして、アニーが父の死を受け入れたのを知った。
「帰ろう。 エラが心配してる」
「うん」
  二人は手をつないで、ひっそりと森を後にした。


6 友達になろう


 アレックスに庇ってもらった晩、ルイーズは布団の中で、長いこと考えていた。 
(これは恋じゃない。 本で学んだ知識によると、恋した人間は相手の前に立つと足が震え、喉がかわき、満足に口がきけなくなるそうだ。 
でも私は少しもそんな風にならなかった。 ただやたらに楽しくて、笑い出したい気分になっただけだった)
  ルイーズは、ずっと以前から今日を待っていた。 アレックスと話し、笑いあい、並んで歩く日を。
  アレックス……最初はその名前さえ知らなかった。 1900年のクリスマスの日、母は娘をディナーに連れて いくはずだったのに1時間も遅れた。 たぶんルイーズのことなんか忘れていたのだろう。 だが、白い 柵の前で泣きそうになっていた少女を見守ってくれている男の子がいた……
  あの日から、ルイーズは彼を忘れたことはなかった。 毎年ポストにクリスマスカードが入っていたから、 彼の方も覚えているのがわかった。 ルイーズはずっとカードの交換をしたいと願っていたのだが、どうしても 彼を見つけることができない。 ようやくめぐり逢ったのは、わずか4ヶ月前だった。
 既にルイーズは眼鏡をかけ、ダンスのレッスンに通い出していた。  そんなある日、友達と一緒に校門を出て少し行ったところで、帽子をあみだに被ってポケットに 手を突っ込んだ姿が、不意に目の前に現れた。
  ルイーズの両側にいた少女たちは、二人とも金縛りになってしまった。 ルイーズは、二人が立ち止まった のに気づかず、そのまま歩きつづけた。 すると、少女の一人が呼び止めた。
「ルイーズ! 戻ってらっしゃいよ!」
  ルイーズは、きょとんとして振り返った。
「なぜ?」
  二人は顔を見合わせ、急いで回れ右すると走っていってしまった。 ルイーズは向き直り、ゆっくり 歩いてくる少年を眺めた。 どうやら二人は、この子を恐れているらしい。 くっきりした鋭い顔立ち、 黒い髪、灰色の眼。 暗く沈んだその眼は、野性の狼を思わせたが……
  ルイーズは、あっと思った。 
(この人だ! 間違いない)
  見違えるほど荒んだ、人を寄せ付けない雰囲気ではあるが、彼は確かに、《クリスマスのガーディアン(守護者)》だった。
  思わずルイーズは少年に駆け寄った。
「あの……」
  少年は、ルイーズを空気のように無視して行ってしまった。
  ルイーズは立ち止まった。 知らない間に肩が落ちた。
(私が誰か、わからないんだ……)

  その日、ルイーズは家に帰ってから、これまでしたことのない事をした。 着替えた後で、 鏡をじっくり覗きこんだのだ。 そして、わびしい結論を下した。
(私には魅力なんかない)
  ほっそりした鼻と形のいい口元は、ルイーズの目には入らなかった。 大きな眼鏡をかけていると、 両方ともこじんまりと目立たなくなってしまう。 そして、何よりもルイーズの際立った特徴である、 金色の粉をまぶしたような美しい眼は、レンズの冷たい光に隠れてしまっていた。
  翌日、ルイーズは級友から少年の身元を聞きだした。 彼の名はアレックス・オーウェル。 メイナード 通りの角に広壮な邸宅を構える事業家の長男だった。 しかし、二度目の母とそりが合わず、夜遊びや 喧嘩を繰り返して、今では有名な不良になっているという話だ。
「いつも大きなナイフを持ち歩いているのよ」
と、その友だちはおびえた口調で言った。
  オーウェルと聞いて、ルイーズは驚いた。 オーウェルを名乗るもうひとりの子、つまり後妻の子のショーン なら知っているのだ。
  小さいころ、ショーンはルイーズを妾の子と言っていじめた。 その兄がアレックスなら、兄弟はまったく 似ても似つかないことになる。 外面がよくて、弱い者には暴君のショーン、大人には嫌われているらしいが、 ルイーズにはあんなに親切にしてくれたアレックス。 
(逢えてよかった。 話が出来て本当によかった)
  ルイーズは、眠りに落ちた後でも微笑みを浮かべていた。

  翌日から、ルイーズはいつも決まった時間にレッスンを終え、その小道を通るように心がけた。 そうすると、 ハンチングことサム・チャールソンにいじめられなくてすむし、それに時たま、角の木立の中に煙草の煙が 揺れているのを見ることもできるのだった。
  アレックスがいる、と、煙を発見するたびにルイーズは胸を高鳴らせながら思った。
  一週間その道を通って、ルイーズは少し大胆になった。 ほとんど人通りのないわき道だから、ちょっと話しても いいんじゃないかと強引に考えて、勇気を奮って林に乗り込んだ。
  アレックスは木に寄りかかって煙草をふかしていた。 煙アレルギーのルイーズは、彼に近づこうとして、 くしゃみの発作に襲われてしまった。
  にやにやしながら、アレックスは煙草の火をもみ消して振り向いた。
「おっ、めがねちゃんか。 煙草慣れしてないな。 どうだい、一服吸ってみないか?」
  煙草の箱を突き出されて、ルイーズは面食らった。
「よしとくわ。 煙草は駄目なの」
「そりゃそうだろう」
  アレックスは噴き出した。
「中学一番の模範生なんだって? 煙草なんて吸えるわけないよな」
「私、模範生じゃないわ」
  ルイーズは少し怒って言い返した。 アレックスは面白そうに首をかしげた。
「そうかな? まじめだし、勉強はよくできるし、規則破りなんか一度もしてないだろう?」
  ルイーズは苦い口調で答えた。
「規則破りしないことが規則破りなのよ」
  アレックスは口を尖らせた。
「何だって? 哲学的なしゃべりは俺にはわからないぞ」
  ルイーズは彼と並んで木に寄りかかった。
「母は私に勉強なんかしてほしくないの。 ダンスや演技や歌の稽古をやらせて、女優か、それが 駄目ならダンサーか歌手にさせたいのよ。 でも私は母とちがって人前に出るのが苦手なの。 女優に なれるような取り得もないし。 だから、嫌なことから逃れるために勉強してるの」
  アレックスは手を上げて爪の先を眺めた。
「嫌なことにもいろいろあるわけだ。 俺なら勉強の方がいやだね。 ダンスのレッスンで飛んだり 跳ねたりするほうが楽しそうだ」
  ルイーズは眼を輝かせた。
「それなら習ってみない?」
  アレックスは面食らった。
「俺が……?」
「そう」
  ルイーズはすっかり夢中になった。
「今のところ暇なんでしょう? ダンスのクラスに一緒に行きましょうよ」
  アレックスは、眼鏡をかけた少女をつくづくと眺めた。
「凄いことを言うね、めがねちゃん。 付き添いなしで男と歩いたりしたら大ごとだよ。 おまけに相手がオレ様では」
「そう……」
  ルイーズはがっかりした。
「色々面倒なのね。 忘れてたわ」
「他にも忘れてることがあるんじゃないのか?」
とアレックスは笑った。
「俺が不良だとかさ」
「忘れてはいないわ」
と、ルイーズは落ち着いて言った。
「でも私はあなたを不良とは思ってないし、うちの母はあなたと付き合ってはいけないとは言ってないわ。  禁じられていないことをして悪いとは思わない」
「こんなふうに俺と話してることがわかればすぐに禁止するさ」
「誰が言うの?」
  ルイーズは平気だった。
「ただの友だちなんだから、とやかく言うほうが間違ってる」
  そこでルイーズは不安になって、アレックスを見上げた。
「私たち友だちよね? そうでしょう?」
「そうだ」
  アレックスは間髪を入れずに答えて、ルイーズをほっとさせた。

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