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3 突然の不幸


 あのときは幸せの頂点だった、と後で思える一日がある。 1907年のクリスマス・イヴ前日。  その夜は、デュヴァル家にとって、かけがえのない時間となった。
  3日前にジョーが近くの森から切り出してきた樅の木に、子供たちがわいわいと飾り付けした。  子供たち、と言えるのがなんとも楽しい。 トムが農場に来てから2年半が過ぎていたが、 芯から気性のまっすぐな子で、スポンジが水を吸い込むように仕事をよく覚え、骨身を惜しまず働いた。  細かった体には筋肉がつき、背丈もいつの間にかローズを追い越して、6フイート近くになって、 アニーをくやしがらせていた。
「靴下は暖炉に吊るしたし、と。後はヤドリギ……」
ドアの上にヤドリギを打ちつけようとして、アニーは代わりに指を打ってしまった。
「いてっ!」
  ホットミルクを持って台所から出てきたエラが、眉をしかめた。
「下品な言葉を使わないこと。 トムのほうが上品なぐらいなんだから」
祖母の後ろ姿に舌を出してみせて、アニーはまたヤドリギに取りかかった。
  そこへ、薪を両手に一杯抱えたトムが入ってきた。 そして、アニーの奮闘ぶりを見ると慌てて薪を暖炉の横に置き、 あぶなっかしく背伸びしている少女に駆けよった。
「無理! 俺がやるから」
「できるって。 去年もやったでしょう?」
「踏み台に乗ってね。 たいして大きくなってないんだから、爪先立ちでやったら危ないよ」
  痛いところを突かれて、アニーは義理の兄を横目で睨んだ。
「チビスケとか言いたいんだ」
「言わないよ」
口元がピクピクしていたが、トムはやさしく答えた。 女とみればヤジを飛ばす近所の悪がき連中と一緒にされては困る。
「アニーは女の子だから、そのぐらいがちょうどいいんだよ」
「よくない!」
  父親の愛馬である、黒光りの巨大馬『グランデューク』に乗りたいというのが夢のアニーにしてみれば、 身長は5フィート8インチはほしいところだった。 さもないと足があぶみに届かない。
  ローズが台所から顔をのぞかせた。 大きなおなかを抱えてちょっとつらそうだが、にこにこしている。
「ねえ、ローストビーフの味付け、これでいいかしら」
  たちまちアニーはヤドリギを放り出して飛んでいった。 そして肉汁を一なめしてからうなずいた。
「いい味。 ねえ、プディングは私に作らせて!」
「去年はフィリングが流れ出ちゃったじゃない」
「だから今年こそ!」
  トムが通りすがりに冷やかしていった。
「失敗作をデボラに食わすなよ。 腹下してやせたら、売り物にならない」
  デボラとは、ヨークシャー種のブタだった。
  アニーはしかめっ面になって、材料表をにらんだ。
「このレシピだと、どうしても粉が少ないような」
「きちんと計って、きちんとふるうの。 それがお菓子作りのコツ」
  祖母のエラまでが台所に入り込んできたので、身動きが取れなくなった。 粉が舞い、ミルクがこぼれ、 歓声と叫び声が入り混じる。 こんなクリスマスは、二度となかった。


  トムが家族の一員になって以来、一家はこの時期になると古着やおもちゃを集め、箱に入れて孤児院に送っていた。
 するとクリスマスが終わってから、お礼状が来る。 トムの親友で兄貴分でもあるダン・フォードからは、 必ず見事な木工品が届いた。 これまでは本立てと宝石箱だった。
  今年は何かな、と、アニーはトムが茶色い包み紙を開くのをじっと見つめた。 中から出てきたのは、ヒイラギの葉を 周囲に彫りこんだ小さな額縁だった。
「すごい、これ!」
  細かい彫刻を指で撫でて、アニーは感心した。
「ダンって、年々腕を上げてるね」
「木工職人になるつもりなんだろう」
  イヴの日にようやく海から帰ってきた父が言った。


  新しい年が始まって4日が過ぎた。 その日、デュヴァル家は朝から慌しい空気に包まれていた。
  ローズが産気づいたのだ。 まだ予定日まで一ヶ月あると、エラが言っていたにもかかわらず。 アニー を生んでから13年も経っているので、以前から心配されていたのだが、ローズは頑として医者にかからなかった。
  すぐに産婆が呼ばれた。 トムは男の子なので外で待機。 奥の寝室にはローズの母親であるエラと産婆のロジャース さんが入り、アニーは父のジョーと、居間で安産を願った。
  お産は長くかかるもの、と聞かされていたので、アニーはあせらなかった。 しかし、午後の5時ごろ、 長く尾を引く叫び声が奥から聞こえてきたとき、椅子から立ち上がって震えだした。
  ジョーは寝室に飛び込んでいった。 しかし、アニーは行けなかった。 脚の骨が不意に消えてしまった ような気がする。 動けない。 一歩も前に進めなかった。


  その夜遅く、ローズは息を引き取った。 男の赤ん坊も助からなかった。

  村はずれの墓地で、静かに葬儀が行なわれた。 弔問客は50人を越えたが、ジョーの実家からは誰一人来なかった。
  ただ、簡素な式には不似合いなほど上等な喪服を着た紳士が一人訪れた。 その紳士は、ジョーを見るなり駆けよって、 固く抱き合った。
「ジョー!」
「デニー!」
  デニーと呼ばれた紳士にもたれかかって、ジョーは初めて、どっと泣きくずれた。

「妻を失えば、大抵の夫は辛いけれど、ジョーは特に辛いはずよ」
  ゆらぐ暖炉の炎を目で追いながら、エラは低く言った。
「あんたたちにはこれまで何も話してなかったのよね。 ジョーは自分の口からは多分言わないでしょうから、私が話しておくわ」
  隣に座っていたアニーが、ぼんやりと視線を向けた。 いつものきらきらした瞳はどこにもない。 ただ暗幕で覆ったような 鈍い色が目の中一杯に広がっていた。
  「ジョーはね、本名をジョーゼフ・イアン・テンプルというの。 テンプルはカナダのバンクーバーから南に下ってきた一族でね、運送業で財産を作ったの。 さっき来ていたデニーはジョーの従兄弟よ。  いまでも仲良くしているただ一人の親族。
  なぜそうなったかというと、ジョーがローズと駆け落ちしたから。 ローズはテンプル家に小間使いとして入って、次男のジョーと恋に落ちたのよ」
  両親がそんな劇的な結びつきをしたなんて、アニーには想像がつかなかった。 たしかに仲良しの 夫婦ではあったが、駆け落ちとは!
  床に座って、立てた片膝に肘をついていたトムが、ぽつんと言った。
「父さんって勇気あるんだ」

 ジョーはその夜、一晩中家を留守にした。 そして翌朝帰ってきたときには、金髪が灰色に見えるほど 全身埃にまみれ、まっすぐ立っていられない有様だった。 手は傷だらけで血がついている。 泥酔した あげく、喧嘩を繰り返したようだった。
  ローズのお気に入りだったカウチの背に手をついて、がっくりとよりかかりながら、ジョーは顔だけを娘に向けて言った。
「これからはお前だけが支えだ。 お前のかわいい笑顔だけが」



4 7年経って


 すりへった石畳の上を、小さな青い靴が急ぎ足で歩いていた。 腕にしっかりと鞄を抱え、 きゃしゃな鼻に重そうな眼鏡をかけて、うつむいて歩く姿は、すれちがう人々になんとなく痛々しい印象を与えた。
  少女は固くなっていた。 緊張は、人通りの少ない裏道に入ると、一層はっきりとした。 辺りに用心深く視線を 配りながら歩いていた少女は、曲がり角の手前で、不意に足を止めた。
  雑木がガサガサと音を立てて、ハンチング帽を目深に被った少年が現れた。 その後ろに二人、 子分らしいのが従っている。 3人は肩で風を切って少女の周りをうろつき、舌を出したり、しかめ面をして みせたりした。 だが少女は懸命に前を見つめていて、視線をそらさなかった。
  ハンチングが無理に作った濁み声で言った。
「何持ってるんだ? 格好つけちゃってよ」
  子分がさっそく後を引き取った。
「歌のお稽古だってよう」
「歌だって? ラ、ラ、ラー。 オペラ歌手にでもなる気かい」
  ハンチングが一段と声を張り上げた。
「おまえ、父ちゃん、いないんだってな」
「おまえの母ちゃん商売女だって、うちの母ちゃん言ってたぞ」
  その瞬間、少女が凄い勢いで顔を上げた。 そして、思いがけず鋭い声で言い返した。
「商売女なんかじゃない! 嘘つき!」
  ハンチングは一瞬たじろいだ。 だが、すぐ怒りが込み上げてきて、少女に飛びかかると、レッスンバッグを むしり取った。 少女は慌てて追いかけた。
「返して! 返してよ!」
  少年たちは、ぱっと二手に分かれて、面白そうにバッグを手から手へと投げあった。 その度に少女は飛びついて 取り戻そうとしたが、あと少しのところで届かない。 それでも必死に後を追っていた。
  ハンチングは、両手にバッグを持って高くかざし、やったぜ! というように打ち振った。
「これがないと困るんだろ? こわーい母ちゃんに怒られるんだ。 返してほしいなら、そこに膝をつけよ。  嘘つきなんて言って悪かったとあやまれ!」
  少女は一瞬ためらった。 
  そのときだった。 いきなりハンチングが宙に舞い、あっという間に地面に叩きつけられた。
  子分二人は、あまり不意だったので身動きできなかった。 ハンチングは埃の中で呻き、短い泣き声を立てた。
  驚く暇もなく、少女の手の中に、ぽんとバッグが放り込まれた。 よく響く、ものうげな感じの声が言った。
「親がどうとか言ってたな、おまえたち」
  腰を抜かして、ハンチングは答えることさえできなかった。
  悠々と歩み出てきた若者は、ハンチングたち3人を見すえながら、鋭さを増した口調で続けた。
「親がなんだ。 てめえら親持ち出さないと喧嘩もできないのか?」
  睨みつけられて、ハンチングは何とか声を出そうとしたが、妙に押しつぶされた意味不明の音しか聞こえなかった。
  若者は、冷たい微笑を浮かべてハンチングの前に身をかがめ、手を取って荒っぽく引き起こすと、くるりと半回転させて、 尻を蹴り飛ばした。
「さっさと消えろ! 二度とこの辺をうろつくなよ!」
  たちまち3人は、ばたばたと足音を乱して逃げていった。
  バッグを胸に抱いたまま、少女はぼんやり立ちすくんでいた。 片親とからかわれたのは最初ではない。  だが、こんなみごとな庇われ方をしたのは、生まれて初めてだった。
  頬が熱くなっているのに気づいて、少女は慌てて首を振り、礼を言おうとして顔を上げた。 ところが、相手はいなかった。
  ぎょっとした少女が見回すと、若者は既にだいぶ離れた藪のそばを歩いていた。
  少女は大急ぎで彼の後を追った。
「待って! ねえ、待って!」
  若者は立ち止まらない。 少女は息を切らせながら走り、彼の腕に手をかけた。 それでようやく、若者は足を止めた。
  若者の斜め前に立つと、少女は懸命に言った。
「あの……ありがとう。 親切にしてくれて」
  彼は数秒間、少女を見つめて黙然としていた。 それから、ひどくそっけなく言った。
「あんたもいいかげん迷惑なんだよ。 向こうの広い通りから帰れよ」
  少女は二の句が継げなくなった。 この若者がたいそうひねくれていることを知っていたからいいようなものの、 普通なら真っ赤になって逃げ出すところだ。
  ともかく、少女は気を取りなおして、穏やかに繰りかえした。
「それでもありがとう。 バッグ取り返してくれて感謝してる」
  若者の表情がはじめて動いた。 彼は唇を噛んで少しためらっていたが、まったく突然に手を伸ばして、少女の顎を持ち上げた。
  少女の眼がまん丸になった。 だが逃げようとはしなかった。 顔を近々と寄せて、若者は一語一語区切って尋ねた。
「めがねちゃん、俺が・誰か・知ってるか?」
  すぐに少女はうなずいた。
「知ってるわ。あなたアレックスでしょう? ショーンのお兄さんの」
  それから自然の順序として付け加えた。
「私はルイーズ・バーナビー」
  アレックスは、火がついたように手を離した。
「いったい何のつもりだ」
「何のつもりって……」
  ルイーズはびっくりした。
「別に何のつもりもないけど」
  確かに彼女は普通にしゃべっているだけだった。 普通でないのはアレックスの方だ。 彼は夕立雲のような 形相になっていた。 そして噛みつくように言った。
  「ショーンの兄貴だからって、あいつと同じじゃないぞ! のんびり自己紹介なんかしてるんじゃないよ!」
「そうね」
と、ルイーズは静かに言った。
「あんまり似てないみたい」
「あんまりどころか!」
  アレックスは遂に大声になった。
「俺は一ヶ月前に退学になったばかりなんだぞ!」
  ルイーズは心配そうに尋ねた。
「学校が嫌いだったの?」
  アレックスは一瞬目をつぶった。 それから根負けして笑い出した。
「学校側が俺を嫌ったんだよ。 退学ってのは追い出されたってことさ」
  ルイーズは、その言葉をろくに聞いていなかった。 彼女は目を見張ってアレックスを見つめていたのだ。 それに 気づいて、アレックスは再びむっとした。
「何じろじろ見てるんだ」
  ルイーズは、ほとんど考えずに、思ったことを口にしてしまった。
「アレックスって、笑った顔のほうがずっといい」
  これは文字通りの不意打ちだった。 アレックスは絶句して、不覚にもぱっと首筋を赤らめ、顔をそむけた。
「くだらないことを言うなよ。 おふくろ殿は、俺を悪魔みたいな顔だと言うぜ」
  ルイーズは苦笑した。
「それじゃ、うちの母は女悪魔ということになるわ。 あなたは母に似ているもの」
  アレックスは、振り返ってルイーズを見た。
「俺が?」
「ええ、二人とも髪が黒いし、整った顔立ちで……私よりあなたの方が母の子みたい」
  アレックスはうつむいて足元の石を蹴飛ばした。
「俺はあんたの母親でも兄弟でもない。 こんなになれなれしく道草してていいのか?」
  ルイーズははっとなった。
「あ、そうだ。 早く帰らなきゃ。 じゃ、さよなら、アレックス、またね」
  急いで走っていく少女の後ろ姿を、アレックスはなんともいえない表情で見送った。


 それから10分後、ルイーズは、淡い灰色のしゃれた住宅に戻ってきた。 台所の窓から 家政婦のマルーカが顔を出して、陽気に迎えた。
「ルイーズちゃん、お帰り。 クッキーが作ってあるよ」
  ルイーズはにこっとして中に入り、服を着替えた後で台所に行って、マルーカと仲よく並んでおやつを食べた。  マルーカは話し好きで、ポーランドの昔話や、罪のない噂などをおやつの時間にルイーズに話してくれるのが常だった。
  だが、この日に限っては、いつものようにいかなかった。 誰でも噴き出してしまう牛乳屋の失敗談をしていて、 マルーカはルイーズが手に顎を載せてぼうっとしているのに気づいた。
「ルイーズちゃん、なにを考えてるの?」
  はっと我に返って、ルイーズは家政婦に視線を移した。
「なんでもない。それでカルロスさんはどうしたって?」
  マルーカは目をぱちぱちさせ、急にずるそうになった。
「そうか、好きな子ができたんだ、やっと!」
「ちがうわ!」
  びっくりして抗議しようとするルイーズを、マルーカはわけ知り顔で遮った。
「晩生(おくて)なルイーズちゃんが、やっとだ! 本当に遅すぎるぐらいよ。 私が14のときには、もう3人目の人に あこがれてましたよ」
「それで何人目と結婚したの?」
「ええっとね、たしか……」
  そこで気がついて、マルーカは思い出話の洪水から危うく回れ右した。
「むだよ。 気をそらそうったって。 恋はいいことですよ。 お母さんが何を言っても」
「たとえ一方通行でも?」
  マルーカの額に、ちょっと皺が寄った。
「たとえ、そうでもね。 あのドキドキは、何回やってもいいもんだから」
「お母さんは一回でやめちゃったのね」
  ルイーズの声はそっけなかった。
「私もそうなるかな。 それとも一度も恋を知らないで終わっちゃうかな」
  マルーカは静かに答えた。
「おとなになって眼鏡を外してごらんなさい。 男のほうが放っとかないから」

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