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1 新しい兄


「ママ! エラ! パパが帰ってくるって! 男の子を連れて!」
  高い声で叫びながら、竜巻のように飛び込んできた女の子をよけそこなって、エラは手に持っていた 洗濯物の籠を床に落としてしまった。
「アニー! あんたはもう……!」
  叱ろうとしたときには、アニーはとっくに奥の部屋に駈けこんでいた。
「ママ! サントスさんが教えてくれたの!町でパパに会ったんだって! 男の子連れてたって!」
「まあ、アニー」
  カウチに横たわっていたきゃしゃな女性が、思わず笑い出した。
「そんなに楽しみにしていたの? 男の子が来るのを」
「うん!」
  無邪気にうなずきながら、アニーは傍の小テーブルに載っていたキャンディを2つ同時に口に 放りこんだ。
「アニー! 手を洗わずに食べちゃだめ!」
  入口に現れた祖母のエラが厳めしく言ったが、その威厳も、アニーがキャンディでべとべとに なった手で抱きついたので、台無しになった。
「よかったよね、エラ! これで私、一人っ子じゃなくなるし、農場を継ぐ人ができるし、パパだって 安心して船に乗れるしね!」
  エラは笑いながら、有頂天の孫娘をたしなめた。
「それには5年はかかるでしょうね。 ジョーは、12から15ぐらいの子にすると言っていたから」
「5年なんてすぐ経つわよ」
と、おませなアニーは言った。
「私だってもう10歳よ。 もうじき中学生。早く学校出たいな。 卒業したら髪を切って、 船に乗り組むんだ。 パパの跡継ぐの」
「それには後2フィート背が伸びなきゃね」
  一番気にしていることを言われて、ぷっとふくれたアニーの頬を、エラが笑いながら指で ちょんと突いた。

 待ちきれなくて、アニーは馬にまたがって何度も乗り合い馬車が通る道まで行った。
  小型とはいえ大人の馬の背に乗って、赤褐色の髪の小さな少女が軽々と身をおどらせて走って いくさまは、まるでサーカスの愛らしい看板娘だった。
  5度か6度目に道に出たとき、アニーは待望の馬車を見た。 大喜びで、アニーは馬上で飛び 上がって手を振った。
「ほーい、パパ、パパ!」
  びっくりしたのは馬だ。 あっという間に竿立ちになって、少女を振り落とした。
  馬車から飛び降りた金髪の青年が、大急ぎでアニーを抱き上げた。
「アニー! 怪我はないか?」
  父の腕の中で、アニーは照れて答えた。
「だいじょうぶ。 慣れてるもん」
  それから、気もそぞろできょろきょろと辺りを見回した。
「男の子はどこ? もらってきたんだよね!」
  ジョーは娘を降ろし、道端にぽつんと立っている少年に近づいて肩に手をかけた。
「ここにいるよ。 トムっていうんだ。 トム、今日から君の妹になるアニーだよ」
  アニーは、穴があくほど少年を見つめた。
  最初に考えたのは、父がまちがえて女の子を貰ってきてしまったのではないかという疑惑だった。
  少年はひどくやせていた。 栗色の髪は艶なく耳にもつれかかり、大きな茶色の眼は弱々しく 見開かれている。 もう少し肉が着けば可愛い顔だろうと思われたが、今のところ可愛いと 言えるのは、形のいい素直な眼だけだった。
  少年は明らかにおびえきっていた。 頬に涙の筋がついているのを見て、アニーは急にトム少年が かわいそうでならなくなった。 長年育った孤児院を連れ出されたのだ。 きっと心細いだろう。  一度父に連れられて町に行って、迷子になったことのあるアニーは、そのときのめまいがするような 恐怖を思い出して、大いにトムに同情した。
  アニーは微笑んでトムに近づき、手を伸ばして汚れた指を握った。
  「こんにちは」
  トムは、真っ赤になって、口の中で答えた。
「こん……にちは」
  なんて可愛いんだろう、とアニーは姉になったような気持ちでトムを眺めた。
「行きましょう! ママとおばあちゃんに紹介するわ。 あ、おばあちゃんって呼んじゃだめよ。  怒るから、エラって呼んで。 二人ともあなたを待ってるから、さあ!」
  ずるずると引きずられながら、トムは途方にくれた表情でジョーを振り返った。  馬車から荷物を下ろしていたジョーは、少年を元気づけるために笑ってみせた。
「行きなさい。 荷物は持っていくから」
「すみません」
  トムはそれだけ言うのがやっとだった。 アニーは、トムを引っ張ってぐんぐん歩きながら、 指を口に入れてピイッと吹いた。 すぐに、さっきアニーを振り落とした馬が駈けてきて、 おとなしく並んで歩き始めた。
「家はあそこよ。 ほら、小さく見えるでしょう」
  アニーは、まじめくさって説明した。
  「うちはお金持ちじゃないの。 貧乏ってほどでもないけど、パパは船に乗ってるから、 農場はおばあちゃまと雇い人のカルザースさんとでやってて、大変なんだ。
   もうじきパパは船長さんになって、お船を持つの。 あなたはこの農場を持つの。 わかった?」
  トムは、ぼんやりして周囲を見た。
「僕が……? こんなすてきなとこを……?」
  アニーは喜んだ。
「まあ、あなたいい子ね。 ここ、すてきだと思う?」
「すごくすてきだよ。 天国みたいだ」
  トムは、ふうっと大きな溜め息をついた。
「来てよかった。 こんないいとこだったなんて」
  そこで、トムは急におびえてアニーの手を掴んだ。
「君のお母さんとおばあさんは僕を気に入ってくれるかな」
  アニーは、しかつめらしくトムを見た。
「あなたはもううちの子なのよ。 だから、あなたのお母さんとおばあさんって言わなくちゃ いけないのよ」
 
 トムを見て一瞬どう思ったにしろ、エラもローズもアニーと同じく心からトムを歓迎した。  人間気立てが一番だ。 トムはその点、素直でなかなか感じがよかった。  アニーのおかげで最初のはにかみが消えたのが、いい印象につながったようだった。

 その夜、子供たちを寝かしつけてから、ビールを手に、ジョーは居間で義母と妻に息子選びの 経過を説明した。
「とても聞き分けのいい子だよ。 動物好きだし」
  エラがそっと言った。
「ちょっと弱そうね」
「僕もそれが心配で、シカゴの病院で健康診断してもらった。 悪いところはないそうだ。  ただ、栄養が足りないだけで」
「まあ、かわいそうに」
  妻のローズが眉をひそめた。 ジョーは、ちょっと黙っていてから、低い声で言った。
「本当のことを言うと、僕の欲しかったのは別の子なんだ。 背か高くて丈夫そうでね、 一目でこの子にしようと決めて、院長に話した。
   そうしたら、トムがその子にしがみついて泣き出したんだ。 物心ついてからずっとその子に庇ってもらっていたらしい。 離れるのはいやだと泣いて、 僕は困ってしまった。
  するとね、僕の選んだ子が急に、金持ちでなければ養子に行かないと言い出した。  そして、『こいつは動物が好きだから、農場に向いてますよ』と言って、トムを押し出したんだ。
  びっくりしたよ。 胸がじんとなっちゃってね。 できるなら二人とも引き取りたかったんだが、うちには とてもそんな余裕はないし、結局トムを連れてきたんだ。
  トムはデトロイトの鉄道員の子で、父親は事故で死に、母親はあの子を育てきれないで、 孤児院に預けたということだ」
  ローズは身を乗り出して聞いていた。
「その、友だちに譲った子、立派な子ね。 どうして孤児院に入ることになったのかしら」
  ジョーの表情がかげった。
「母親が出産で死んだという話だった。 東欧系の移民の子らしいが、密入国で、 身分証明書がないから、法律上は私生児だ。 かわいそうに」
 
 翌日の昼過ぎ、アニーは飛ぶように学校から帰ってきた。 トムは、慣れるまで数日は、 登校しないでいいことになっていたので、アニーは一刻も早く、彼と遊びたかったのだ。
  トムは、裏庭でアヒルを見ていた。 いくら見ても飽きない様子で、じっと眼をこらしている。
   アニーも隣に腹ばいになって一緒に見ていたが、すぐに退屈になって、トムに話しかけた。
「ねえ、手に持ってるの何?」
  トムは大事そうに右手を広げてみせた。
「うーんと、どこかで見たことある」
「ハーモニカだよ」
  トムは口にくわえて、『おお、スザンナ』の一節を吹いてみせた。 アニーが喜んで手を叩いた ので、突然の大きな音に驚いたアヒルたちは抗議の叫びをあげ、よちよちと池に入りこんで、 泳いでいってしまった。
「うまい!」
「全然。 ダンのほうが百倍上手さ」
「ダンって?」
「僕の兄貴」
  アニーはたまげた。
「兄さんがいたの?」
「ほんとの兄さんじゃないけど、本物よりもっと大事なんだ。 いつも庇ってくれたんだ。  ここに来られたのだって、兄貴が代わってくれたからなんだよ」
「代わってくれたって?」
「デュヴァルさんは……お父さんは、ダンをもらうつもりだったんだ。 でもダンは、僕の方が 家を欲しいだろうって譲ってくれたんだ」
  たちまちアニーは、ダンという少年を大好きになった。
「すてきな子ね! 私もそんな兄さんがほしい!」
  言ってしまってから、あわててアニーは付け加えた。
「あなたと両方ね。 何人いてもいいもの。 だけど、トムにそれをあげちゃったら、 ダンって人、もうハーモニカ持ってないんだね」
「うん……」
  トムの顔が暗くなった。 アニーはぴょんと立ち上がり、宣言した。
「貯金箱をこわす!」
  飛んだ答えに、トムはきょとんとした。
「えっ?」
「バークレーさんの何でも屋に行って、新しいハーモニカ買って送るの」
  たちまちトムの眼がかがやいた。
「いいの? 大事な貯金だろ?」
「馬の世話すればすぐ貯まる。 トムの兄さんなら、私にも大事だもん!」



2 都会の子



 都会の雪は汚い。
  空にあるときは、どこの雪でも真っ白だが、大都会に降る雪は運が悪く、 石畳に落ちたとたんに水っぽくなり、道の端に追いのけられ、うず高く積まれる。
  それでも歩道はまだいい。車道にでも落ちれば、積もるひまもなく、車のわだちに茶色く 踏みつぶされていく。
  並木に残った枯れ葉が、雪の重みで枝から離れ、白い柵に寄りかかっていたルイーズの 青い帽子にひらひらと舞い降りた。
  そこはニューヨークの目抜き通り。 あさってはクリスマスなので、午後の4時でも人出が多く、 長いコートに身を包んだ男女が忙しそうに行き来していた。
  車道はひっきりなしの馬車の列で、なかなか渡れない。 新発明の自動車は、だいぶ増えた ものの、まだまだ、白い息を吐く馬に引かれた馬車のほうがずっと数が多かった。
 本当は、19世紀最後のクリスマスのはずだった。 だか、気の早い連中がその年の初めに 新世紀祝いをすませてしまったので、なんとなく街は気の抜けた雰囲気だった。
  それでも世間は年末。 そこはかとなく慌しく、白い柵のそばに立つ小さな姿を気にする 人は誰もいない。 忘れられたルイーズは、あきらめたように灰色の空を眺め、たまに思い出した ように降る牡丹雪のかたまりを数えていた。
  カサカサッと落ち葉を踏む音が背後で聞こえ、頭の後ろあたりで声がした。 
「何してんの?」
  ルイーズはぱっと振り返った。
  そこには、すらっとした男の子が立っていた。 ルイーズは視力が悪くなりかけていたので、 少年の顔をはっきり見ることはできなかったが、背が高いし、頼もしい雰囲気なので、 自分より年上だということはわかった。
  柵の中にいる少年は、ふっと手を伸ばしてルイーズの帽子にさわった。  人見知りするルイーズははっとして、横に身を引こうとして柵にぶつかった。
  少年はゆっくりと手を広げて、取ったものをみせた。
「葉っぱ。 ついてたの」
「ああ……」
  自分のあわてぶりが恥ずかしくなって、ルイーズは顔を赤らめた。
   それを見た少年の口元が少し上がり、微笑になった。
「かわいくなった」
「え?」
「ほっぺた。 青かったから、赤くなってよかった」
  それから少年は、大きな手でルイーズの肩に積もった雪を払いのけはじめた。
「小っちゃい雪だるまになってる。 いつからここにいるんだ?」
  ルイーズは振り向いて、デパートの大時計を見ようとしたが、最近眼が何か見難い感じで、よくわからなかった。
  目を細めていると、少年が身を乗り出すようにして、遠くの文字盤を読んだ。
「4時21分。 もう暗くなってきたな」
  柵の上から出た上半身が、ルイーズにもたれかかる形になった。 ツイードのコートの 間から温かい空気が押し出され、健康な体臭がルイーズの顔を包んだ。  ルイーズはまばたきしたが、よけようとはせず、彼の胸すれすれで静かに息をついていた。
  柵から片脚を下ろして元通り芝生に立つと、少年はルイーズの顔を覗きこむようにして尋ねた。
「家はどこ? 送ってってやる」
「あの……もうじき来てくれると思う」
「30分前もここにいたよな。 雪だるまを通り越して、つららになるぞ」
「忘れてるの。 でも、思い出したら来てくれる」
「何だよ、それ」
  いらいらした様子で、少年は足を踏み替えた。
「置いてきぼりなら、わめくか泣くかしろよ。 さもないと、ニューヨークのど真ん中で遭難するか、 悪いおやじに誘拐される」
「誘拐……」
  不意に、ルイーズの眼がきらめいた。
「ね、この柵、どこかに入口ある?」
  少年はちょっと考えて、両腕を出した。
「入りたいなら、ここ越えちゃうといい」
  彼の手を借りて、ルイーズは柵をまたぎ越えた。
  そして、そばにある大きな茂みの陰に身をひそめた。
  彼女のたくらみに気づいて、少年の頬に笑窪が寄った。
  ルイーズの横にかがむと、少年はささやいた。
「そうだ。 ちょっとは心配させちゃえ」
  ルイーズは振り向いて微笑み返し、そんな自分にびっくりして、また顔を赤らめた。

  それから間もなくだった。 大きな馬車が道に横付けされ、中から、長いドレスの裾を引いた 女性が降り立った。
  毛皮をたっぷり使ったコートを体に引き寄せながら、美しい眉を寄せて、女性はつぶやいた。
「どこへ行ったのかしら。 本当にぼんやりなんだから。
  ルイーズ! ルイーズ!」
  馬車から、メリノのコートをひるがえして男が降りてきた。
「お嬢さんですか? いないの?」
「待ってるようにちゃんと言ったのよ。 あの子ったら、もう小学生になったのに、 あいかわらず間抜けで」
  隠れているルイーズの体がこわばるのを、少年ははっきりと感じ取った。
  いらついた様子で細い煙草を投げ捨て、美貌の女性は鋭く言った。
「手ばっかりかかって! あんな子、生むんじゃなかった」
  立ち上がろうとしたルイーズの肩を、少年が押さえた。 低い声が耳元に響いた。
「行くことない。 ほっとけ」
「でも……」
「俺が家まで送る。 行ってやることない」
  見ると、二人の男女は馬車に戻るところだった。 回りを探してみようともしない。  ルイーズは唇を噛んだ。

 馬車が通りの彼方に姿を消したころ、少年とルイーズは立ち上がった。  10分以上かがみこんでいたので、足が痛い。
   黙ってコートの裾についた雪を払っていたルイーズを、少年の腕が抱き寄せた。
「気にするな。 後10年、いや、8年ぐらい我慢したら、親なんかほっぽって出ていけるさ」
  寒さで青くなったルイーズの唇が、わずかにほころんだ。
  腕をほどくと、少年はルイーズの手を取って歩き出した。
「ポスターで見たことある。 グロリア・ケントなんだ、君のお母さん」
  ルイーズはうなずいた。
「じゃ、角曲がったとこの灰色の家だな」
  今度は二度うなずき、ルイーズは少年を見上げた。
  少年も首を回して、隣を黙々と歩く小柄なルイーズと目を合わせた。
  視線が揺れ、横の街灯にそれた。 少年の顔の動きを、ルイーズは大きな瞳で追った。
「ねえ……」
「なに?」
「この近くの人?」
「そうだよ」
「会ったこと、あるかな」
  ない気がした。 どうしてだろう。 生まれてから6年半、ずっとここに住んでいるのに。
「あんまりないだろうな。 学校が違うから」
  あんまり…… その言葉が心に引っかかった。  ルイーズは不意に足を止め、 つられて止まった少年の顔をまっすぐ見た。
「私を見たこと、あるの?」
「2,3回。 今日も入れて」
  あなたは誰? と訊きたかったが、どうしても言葉が出なかった。  そのうちに、家に着いてしまった。
  煉瓦の塀の前で、ルイーズは親切な少年に礼を言った。
「ありがとう」
  そして、衝動的に彼の体に手を回し、ぎゅっと抱きしめてから、庭に駈けこんで、扉を閉めた。

  翌日の午後、バーナビー家のポストに、一通のクリスマスカードが投げ込まれた。  スタンプの押していない真っ白な封筒。差出人の名前はなかった。

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