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夏は謎
-2- 犬の散歩
宮坂ペットセンターにとって、木元佐貴子はいいお客だ。 並みより大きい家に一人暮らしで、番犬として由宗を飼っているが、年を取って足腰が弱っているため、ほぼ毎日ペットケアを頼んでくる。
依頼がないのは日曜日だけだ。 誰に犬の散歩をしてもらっているのだろうと、敏美はときどき考えた。
木元家は、東京二十三区で二番目に広い世田谷区にある。 この区は農村から急速に都市化したため、農道がそのまま残っているところが多く、迷路のような細かい道路が、網の目のごとく不規則に広がっている。
その不可思議さが、敏美は大好きだった。 高級ブティックの横を曲がると不意に道が狭くなり、かわいい畑に柿の木が覆いかぶさっていたりする。 何が飛び出してくるかわからないワンダー・ロードなのだ。
だから、由宗と散歩するとき、敏美はできるだけ、以前に通ったのと違うコースを辿ることにしていた。 賢く聞き分けのいい由宗も、そのほうが楽しいらしく、目を輝かせて敏美の脇にぴったりくっついて歩いた。
退屈させないように、犬に柔らかい声で話しかけながら、敏美は左手に入れた小型ナビを見て進んだ。 担当の犬を上手に散歩させるため、三ヶ月ほど前に自腹で買ったものだ。
その日は、東側から回って、等々力渓谷〔とどろきけいこく〕の遊歩道に入った。 都内唯一の渓谷で、水量は少ないながらひんやりと涼しく、盛夏にはオアシスになるところだった。
三十分は、あっという間に過ぎた。
ご機嫌な犬と小走りに帰ってくると、佐貴子が熱々のダージリンとお手製のクッキーを用意して待っていた。 敏美はまず由宗の足を洗い、彼の食事と水を大きなボール二つに入れて台所に置いてから、客間に入った。
大正末期に建てたという洋館だから、客間もクラシックだ。 アーチ型の窓は両開きで、枠に優雅な蔦が彫りこんであり、その前に置いてあるベンチの猫足と対の模様になっていた。
椅子も、座面に繻子〔しゅす〕を張った上等そうな物だったが、白っぽく擦り切れていた。 その上にちょこんと座って、敏美はせわしなくしゃべる佐貴子夫人のもてなしを受けた。
「こっちがバターでそっちがシナモンよ。 くるみ入りのもあるわ。 どんどん食べて」
「はい」
「紅茶もおかわりしていいわよ」
これ以上飲んだら、お腹がガボガボになってしまう。 敏美はあいまいな笑顔を向けてごまかした。
佐貴子の好きな話題は、犬と歌舞伎だ。 犬については敏美も話せたが、歌舞伎はまったくといっていいほど知らない。 それで、佐貴子の若い頃から見た芝居の思い出を、もっぱら聞く役に回った。
初めは宇宙語みたいだった。 時代劇のような芸名が、説明なしに佐貴子の口から飛び出す。 それでも、市川左団次なんていうのなら名前とわかるが、五代目とか海老さまとか言われると、いくら「水のしたたるような美男子でね」と言われたって、実感がなくて見当もつかなかった。
それより、美男というなら、客間の隅にあるアップライト・ピアノの上に、ひっそりと置かれた写真のほうが気になった。
ひとつはモノクロで、見るからに古い。 髪をオールバックにした三十ぐらいの男性で、役者並みに綺麗な顔立ちだ。 くっきりした二重瞼の眼に、思わず吸い寄せられるほどの力があった。
もう一枚は、それよりは新しく、カラーだったが色あせていた。 撮影も写真館ではなく、海辺のスナップで、白っぽいアロハシャツの裾と長めの髪が風に吹き散らされていた。
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