翌日、ほぼ同じ午後4時少し前に、電話はかかってきた。
「もしもし」
  午後のパートに出かけるにはいくらか時間がある。 美弥は小さな椅子に座って テーブルに肘をついた。
「あ、こんにちは」
「やあ」
  彼の声はうれしそうだった。
「あれから大丈夫でした?」
「ええ。 言われたとおり、目立つように大きめのバン貼って出ました。 見て るといいけど」
  男は笑った。 ちょっと声が裏返るのがかわいい。 まだ若いらしかった。
「安心した。 声が明るくて」
「まあ、めげてられないから。 日々がんばらないと」
「お互いそうですよね。 明日があるさって」
  間があいた。 男がまた同じことを言った。
「話してください。 何でもいいから」
  どうして? この世は自分のことを喋りたい人間であふれているのに・・・・ 若いくせに人の話を聞きたがる男性なんて初めてだった。
「あなたにはストレスないんですか?」
「あるある!」
  男はまた笑った。
「でも、あなたの声聞いてるとほっとするんです。 声でなごむ」
  そう言われて悪い気はしなかった。 実は私もあなたの声でなごんでるんだ、 と心で思いながら、美弥はぽつぽつ世間話を始めた。

 彼は毎日かけてきた。 ふたりはお互いに、直接自分に関することはしゃ べらなかった。 だが10日もすると、美弥は彼について知りたくなった。  どんな顔をしているのか、年はいくつぐらいか、何の仕事をしているのだ ろうか。
  彼は非常に特殊な電話相手だった。 いやらしいことは一切言わず、美弥の 話題によく話をあわせてくれ、退屈させない。 この人は好かれるだろうな、 と美弥は思い、なぜ赤の他人に電話なんかしているのか理解に苦しんだ。
 
 2週間ほどして、美弥は思い切って彼に提案した。
「どこかで会わない? いつもかけてもらって私はただだけど、あなたは 電話代かかるんだし」
  返事はなかなか来なかった。 ずいぶん待ってから、不意に濁った声が 聞こえた。
「やめよう。 姿を想像してるほうが楽しいよ」
  美弥はがっかりした。 別に理想像を作り上げているわけではない。  彼の顔かたちにはあまり夢を抱いていなかった。 こんなにやさし くて、もてない(失礼)とすれば、大した容姿ではないはずだ。 それ でもよかった。 見かけより中身だ。
「どうしても会いたくない?」
「それより話そう。 時間がもったいない」
  ちょっとふくれて、美弥は言ってみた。
「なんかわけがあるんでしょう。 私の声が前の恋人に似てるとか」
「あたり」
  男は低く笑った。


 彼と話すようになってから、美弥は変わった。 明るくなり、自信を 取り戻しつつあった。
  酒木はそんな変化を感じ取ったらしい。 落ち着きがなくなり、一日に何 度も電話してくるようになった。
  しつっこく追われると逃げたくなる。 とうとうある日、美弥は電話で言 ってしまった。
「ねえ、私のこと、奥さんに知られたんじゃない?」
「えっ」
  そのあわてた口調で美弥は確信した。 やはりあの剃刀は……
「もうあなたに迷惑かけられないわね。 いろいろお世話になりました。  パート順調だから、今月から少しずつでもお金返します。 だから……」
  酒木はますますあわてた。
「待てよ。 落ち着いて話し合おう。 今夜行くから、きっとだよ」
 

 夕食を作って待っていたが、酒木はなかなか来なかった。 待ちくたび れた美弥はテーブルにつっぷして、いつの間にかうたたねしていた。
  ドアの外で、呻き声ともうなり声ともつかない音が聞こえてきた。 時計を 見ると真夜中の12時近い。 しらふでは来にくくて、一杯ひっかけている うちに泥酔状態になってしまったらしい。
  美弥はがっかりした。 これでは話などできないじゃないか。 
  しぶしぶ小さな玄関に下りたとき、外の声はさかんに繰り返していた。
「ありがと、ありがと。 泊まってってくれよ。 もう終電も出た後だし」
「いえ、いいんです。 じゃ俺、帰りますから」
  酒木を送り届けてきたらしい、そのおだやかな声が耳に届いた瞬間、美弥は よろめいて下駄箱にぶつかった。 にぶい音が出た。
  当たった肩が痛い。 しかし美弥はしゃにむにドアを開いて飛び出そうとし た。
  できなかった。 異様にドアが重い。 酔った坂田が寄りかかっているよう だ。
「どいて!」
  思わず叫び声が出た。 ぶつぶつ言いながら、酒木が体を動かす気配がする。  ようやくドアを押しあけると、美弥は酒木に見向きもしないで外廊下を走 った。

 鉄の階段を駆け下りた。 だが、暗い前庭にはすでに人影はなかった。  あきらめきれなくて、美弥は裏通りを駆け抜け、急に明るくなる大通り まで行ってみた。
  また通行人はいたが、見分けられるはずがない。 顔を見たことがないの だから。 相手だって美弥を知らないはずだ。 お互いに、声だけの知り 合いなんだから……
 
 肩を落として戻ってきた美弥の足が、ふと止まった。 裏通りの角に 立つ街灯に、一人の若者が寄りかかっている。 見覚えのある顔だった。
  視線が合った。 澄んだ眼とまっすぐな鼻。 テレビのアクションタレン ト並みのきりっとした美しい顔は、前に一度会って挨拶も交わしたコンビ ニ店員のものだった。
  じっと据えた視線を外さずに、青年はゆっくり身を起こした。 そして、 聞き慣れた声で言った。
「お帰り。 なに走りまわってたの?」


  妙に冷ややかな眼で見つめられながら、美弥は立ち尽くした。 ほぼ 完全に思考停止だ。 彼の反応、言葉の調子、何もかも理解できなかった。
  美弥が押し黙っているので、彼の方が言葉を継いだ。
「もしかして、俺探してた?」
  美弥の口が自動的に動いた。
「あなた、誰?」
「名前? ツトム。 植村勤」
「電話の……」
「そうだよ」
  そうだよって… 美弥は電光のように悟った。 知らない相手だなんて嘘 だ。 彼、植村勤は誰が電話に出たか知っていた。 初めからわかってい たからこそ、ここでこうやって待っていたのだ。
  頭から血が引いていった。 ふらつきかけたとき、勤が言った。
「別れたいんだろう?」
「え……?」
「あのおっさんと。 酒木とかいう」
  一息ついて、勤は低く続けた。
「たぶんおっさんのカミさんに剃刀送られたんだな。 それでビビった。  そうだろ?
  さんざんグチ聞かされたよ。 駅前の『かげろう』で。 誰が別れてやる もんかーって、わめいてたぞ」
  背筋がひやっとした。 どこか面白がっている様子で、勤は美弥にウインク した。
「助けてやろうか」
「はあ……?」
「うち来いよ。 見つかりっこないから」
  これで3人目の男。 美弥は自分がいやになった。 私って、逃げ込むこと ばかり考えてる。
  大学時代、美弥が好きになった人には恋人がいた。 どう見てもお似合い なので、遠くから見ているしかなかった。 そういうとき、奪おうという 発想がないのが美弥なのだ。 自分でも、生存本能が弱いのかもしれない と感じるときがあった。
  結局、熱心に誘ってくれた洋次になびいた。 逃げたのだと今になると思 う。 いつも逃げている。 もう嫌だった。
「冗談言わないで」
「本気だよ」
  そう言ったとたん、勤は美弥の前に来た。 そして、手近なブロック塀に 強く押しつけると、いきなり唇を合わせた。

 気持ちいいと思ったのが不覚だった。 美弥はそのまま流されて、彼の 部屋に行ってしまった。
 

 驚くほど物のない部屋、というのが第一印象だった。 椅子、机、箪笥 いっさいない。 エスパー○東が入るような大きな黒いバッグが1つ壁際に 置いてあり、ミニミニキッチンに灰色の小型冷蔵庫とずんぐりしたポットが 見えた。 それと押し入れの中に布団。 それだけだった。
「6畳が広く見えるだろ?」
  たしかに畳がほとんど見えている。 美弥はその上に文字通り押し倒された。

 翌日の朝、美弥は勤に引きずられるようにして自分のアパートに行き、 わずかな荷物をまとめて持ってきた。 電話のやさしい男性はどこに消えた のだ、と首をかしげるほど、勤は強引で一方的だった。 でも声は変わらな いので、耳にするたびに美弥はひどく切なくなった。
 
 聞きたいことはいくらでもあるのに、美弥は何も尋ねなかった。 恋っ てこう いうものだったんだ、と初めて 悟った。 児童公園で影ができるほど長い睫毛を見たときは、ただきれいだ な、と 冷静に思っただけだったのに、今では眼が離せない。 華やかな中に憂いを 感じさ せる彼の美貌、心に残るこの顔を、取られたくないなあ、と美弥は切実に願 った。 だが、こんなきれいな子がいつまでも自分のものでいるはずがない とも思った。
  なぜ電話をかけてきたのか。 気まぐれか…… かけた後で番号から名前を調 べたんだろうか。 だが携帯が巷にあふれているこの世の中で、偶然知り合 いにかかる率なんて、おそらく宝くじより低いだろう…… 考えてもわからな かった。

 あいにく二人は同居したものの、すれ違い生活に入ってしまった。 朝、 美弥が出かけるときにはまだ勤は帰ってきていない。 昼ご飯を食べに戻っ てくると、もうぐっすり布団にくるまって寝ている。 それから美弥は遅番 の仕事に行って、10時に解放されたときには彼ははとっくにコンビニに入っ てしまう。
 彼はコンビニをやめたわけではなく、時給のいい夜に働いていた。  美弥と会った日は、昼間の店員が急に休んだので、臨時に半日余計に働いてい たのだ。

 同居3日目は木曜日だった。 そしてたまたま、二人とも休日になった。
  久しぶりに、美弥は寝坊した。 目覚め際のまどろみの中で、浅い夢を見た。
  仔犬がかたわらに来て頬に冷たい鼻をこすりつける。 かわいいな、と思いながら抱き寄せているうちに、相手はどんどん大きくふくらみ、やがて一人前の男になった。
  勤だった。 二人は午前中ずっと布団の中で過ごしたが、夢の中のような甘さはなかった。 ただ激しいだけ。 若いってこんなものかな、と美弥は寂しかった。 それでも心の隅では、抱かれないよりいいと感じている自分がいた。
 
 午後、何も言わずに勤が出かけてしまったので、美弥は久しぶりに智子に電話をかけた。 
 すると、とたんにせきこんだ声が返ってきた。
「え? 美弥? ああ、よかった。 携帯切ってたでしょ。 連絡取れないから、どうしようかと思ってた。
  大変なの。 洋次さんが倒れたのよ」



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