しびれたようになって、美弥は電話を握りしめた。 智子のあわただしい声は 続いた。
「あのね、彼はお酒の飲みすぎで行きずりの人とケンカして、道端で転んで、蜘蛛 膜下出血を起こしちゃったの。 おとといよ。 まだ生きてるかどうか。
  美弥には幸いかもしれない。 こんなこと言っちゃ罰当たりたけど、でも彼が 死ねば美弥は自由よ」
「どこ?」
「え?」
「どこの病院?」
  美弥の声は硬く、抑え難くふるえていた。


 痛み止めを打ってベッドに横たわっている洋次は、シーツと同じぐらい血 の気がなく、意識もほとんどなかった。 医者の話では一両日が峠だという。  助かる見込みはないらしかった。
  ベッドの脇に立って顔をながめながら、美弥は感無量だった。 中堅の商社で 有望株の若手だった洋次に求愛されたとき、美祢は確かに誇らしかった。
  それが暗転したのは、洋次が投資に失敗したのが原因だった。 いつの間にか商談 の手付金を使い込み、スキャンダルをきらった会社が告訴は免除してくれたも のの、金の取立ては厳しく、仕事を失った上に借金を抱えて、洋次は荒れた。
  すべて彼一人の責任だけに、逃げ場がなかったのだろう。 洋次は、目つきが悪 いとか無意識に責めているとか美弥になんくせをつけ、暴力をふるうようにな った。
 
 思い出すのもいやな日々だった。 子供がいなくてよかったと、何度思っ たか。 離婚届は2回破られ、3回目に腕を取って引き回されて、あやうく骨 折するところだったので、あきらめた。 街金に借金しなかったことぐらいだ ろう。 救いといえば。


 自宅のマンションを出て3ブロックほど歩いたところで、智子は呼び止め られた。 何気なく顔を上げて、智子は驚いた。 なんと、不意にやめて以来 音沙汰なしの、もと『ポマロ』のウェイターではないか。
「わあ、久しぶり!」
「こんにちは」
  青年の声は低く、元気がなかった。 目の下に隈ができているのを観察しな がら、智子は思った。 服装は粗末だし、見るからに落ちぶれている。 転職 はうまくいかなかったみたいね。
  仕事を頼まれるのだろうか、と人材派遣業の智子は考えた。 しかし、青年の 口から出た言葉は、まったく思いがけないものだった。
「杉江美弥さんとお友達ですよね」
「ええ」
  智子はあっけに取られた。 青年はせきこむように尋ねた。
「今どこですか? 教えてもらえませんか?」
「あなたに? なぜ?」
  智子の声が硬くなった。 陽気で賑やかな性質だが、友情には厚いのだ。
  青年は身をかがめて小声になった。
「きのう出たきり帰ってこないんです」
「帰ってこないって……あなた、美弥と……?」
  植村はうなずいた。 
「心配です。 前にご主人に殺されかけたみたいでし、今もちょっといろいろ あって、どっちかに捕まっちゃったんじゃないかと」
  いくらか嫉妬がからんで、智子は厳しい表情になった。
「そんなに心配?」
「ええ、すごく」
「好きなの?」
「好き以上です」
  ひどくあっさりと、植村は答えた。 智子は唖然として、上目遣いに180 センチはある青年を見上げた。
「立ち話できる状況じゃないわね。 あそこのマックに入りましょう」
 

 シェイクのストローを何度も折り曲げながら、植村はぽつりぽつりと 語った。
「俺は親を交通事故でなくして、15歳まで育ててくれたばあちゃんもなく なって、一人なんです。 だからお客さんを家族に見立ててしまう癖があって 、こんな人がおやじならいやだな、とか、この人は昔の隣のねえさんに似てる、 とか考えてたんです。
  そのうち、しょっちゅう来る美弥さんが気になりだして…立ち聞きする気は なかったんだけど、お二人の話が聞こえてしまって、だんだん他人事じゃなく なってきたんです。
 ものすごく好きで、彼女が来るたびに話しかけようとしたんだけど、いつ も目をそらされて、どうしてもできなかった。 嫌われてるらしいとだんだん わかって、とても辛い思いをしました。
  そのうちとうとう彼女が逃げ出したと聞いて、もっと収入の多い夜勤に変わっ て、せっせと貯金しました。 俺のできることは限られてるけど、若いし、守 ってやりたかったから」
  苦しげな若者を、智子はじっと見つめた。 慎重な性格の美弥が同居に踏み切 ったとすれば、彼女の方も好きなのにきまっている。 しゃくだなあ、こんな に愛されて・・・・智子は悔しかった。 この若者の一途な愛情は、かつて心 惹かれたことがあるだけに、複雑な思いにさせられた。
  それでも長年の友情が勝ちを占めた。 智子はふくれっ面ながら、決心を固め て青年を見た。
「姿を消したわけじゃないのよ。 たぶん訳を説明しにくくて黙ってるんだと 思う。
  ダンナが死にかけてるの。 いま病院で危篤状態なのよ」
  瞬時に植村の表情が変わった。
「危篤……?」
「そう、最後は見とってやりたいらしいのよ。 美弥は人がいいから」
「病院はどこですか?」
  智子は教えた。


 美弥は屋上で、ぼんやり柵に寄りかかっていた。 特に何を見ているわけ ではない。 葬儀屋が来るまでの時間をどう過ごしていいかわからなかっただ けだ。
  30分ほど前に、意識が戻らないまま洋次は息を引き取った。
  これでほんとに自由だ、と美弥は自分に言い聞かせたが、実感はわかなかった。  むしろ、楽しかったころの夫との思い出が脳裏を駆け巡った。 わがままで ストレスに弱い人間ではあったが、洋次はもともと、決して悪党ではなかった。
 昨夜はほとんど徹夜だった。 疲れきった体に鞭打って、美弥は柵から体 を起こし、階下に行こうとした。 もうそろそろ葬儀の車が来るころだ。
  だが、美弥は3歩と進めなかった。 階段を飛ぶように駆け上がってくるしな やかな姿が目に入った瞬間、足が動かなくなった。
    自分の目が信じられない。 まさか、どうしてここが……!
 
 階段を上りきったところで、勤の眼にも美弥が映った。 足が止まり、 二人は4メートル近く離れたまま、向き合って立ち尽くした。
  どちらもどう切り出したらいいかわからなかった。 ぎこちない沈黙が続き 、先に耐えられなくなった勤が、しわがれた声で口を切った。
「ご主人、なくなったんだって?」
  美弥はうなずいた。 彼の声を聞いたとたん、心臓が不規則に暴れ出して、 収拾がつかなくなっていた。
「葬式なんかは?」
「葬儀社には連絡した。 一応お義兄さんにも知らせたんだけど……」
「すぐ来るって?」
「山口なのよ。 明日になるって」
「遺体を連れて帰れる場所はある?」
  美祢は首を振った。 自動的に答えている自分が不思議だった。
「彼のアパートにはたぶん無理」
「じゃ葬儀屋に頼んで通夜のできる場所に運んでもらおう。 区の施設なら そんなに金取らないと思う」
  渇いた喉に唾を飲み下すと、美祢はつぶやいた。
「若いのによく知ってるのね」
「両親を事故でなくしたし、ばあちゃんもみとったから、葬式にはくわしいんだ」
  手をしっかり握り合わせたまま、美弥は小声で尋ねた。
「お金は80万ぐらい貯金がある。 なんとかなるかしら」
「通夜だけやっといて、後は密葬ということにして、火葬代だけにしとけばいい」
  頼もしい。 飛びつきたくなった。 だがぐっとこらえて、美祢は低く言った。
「親切ね。 電話で話してたときと同じ」
  植村の頬がかすかに痙攣した。
「でもね、もう私にかまうのはやめといたほうがいいわ。 私、ぶらさがりたくなるから。 今ね、27歳。  しかもバツイチ、とは言わないか、離婚したわけじゃないから。 ともかく 初婚じゃないし、明らかに年上。 いまいくつ?」
「24」
  植村は無愛想に言い、それから付け加えた。
「俺、親切じゃないよ。 美弥だからしてるの。
  俺さ、あの酒木って男に、偶然『かげろう』で会ったわけじゃないんだ。  見かけて後をつけてたら、あいつが居酒屋に入っていくのが見えたから、 俺も入った。 そしたら話しかけられちゃって、妙になつかれて、話を聞 かされた。
  それで美弥があいつと別れるつもりなのがわかって、送っていった 。 運がいいよな、あいつ。 あの話きかなかったら、ぼこぼこにして 追い払うつもりだったんだから」
  美祢はかすかに口をあけて、また閉じた。 目の前の青年が淡々と話す 言葉が、宇宙語のようにまったく意味不明だった。
「ぼこぼこって……」
「もう我慢できなかったんだ!」
  不意に勤は大声を出した。
「あざ作って悲しそうで、ずっと年上に見えた美弥が、逃げ出した後 どんどん若返ってきれいになってくのを見て、頭が変になりそうだった。  あいつが美弥を幸福にしたんだと思うとたまらなくて」
  思わず美弥はよろめいて柵につかまった。
「え……? あなた、私を知ってたの? いつ! どこで!」
  今度あいた口がふさがらなくなったのは勤のほうだった。
「どこでって……もちろん『ポマロ』だよ。 4ヶ月も来てて、俺の顔おぼ えなかったの?」
  二人はぼんやり見つめ合った。 美弥はやっとの思いで声を出した。
「あの……じゃ、あなたが智子の言ってた可愛いウェイターさん? そんな……」
  勤は泣きそうになった。
「驚くなよ! わからなかったはずないよ。 『ポマロ』じゃ美祢の顔ばっか り見てたんだぜ」
「だからよ。 私……私、すごく恥ずかしくて上向けなくて、あなたの顔ほと んど見なかったの。 あれ顔や肩にあざ作ってたからあきれて見てたんじゃ ないの?」
「ちがうって!」
  また声が大きくなった。
「そんなふうに思ってた? とんでもないよ! 俺、いつも考えてたんだ。  美祢を助けて、うちに連れて帰れたらどんなにいいだろうって。 だから さ、美弥が携帯忘れたとき、番号取ったんだ。 声とか聞きたかったし」
  言葉を切って、勤はまばたきした。 放心状態で見つめる美弥の視線の先で、 彼の顔はみるみる上気した。
  美祢は目まいを感じた。 激しい幸福感が胸を貫いた。 自分のまったく 知らないところで、そんなあったかい眼が見ていてくれたなんて……
  4メートルの距離はあっという間だった。 美祢は泳ぐように足を踏み出し、 両手を差し伸べた。 指先がかろうじて、大きく波打っている青年の胸に 触れた。
「電話、かけてくれてうれしかった。 初めに声が、それから心が好きに なった。 見た目は最後だったの」
  勤の喉が、ごくっと音を立てて鳴った。 それからいきなり腕が美祢の体 に回り、痛いほど強く抱きしめた。 がむしゃらに唇が重なってきたとき、 小柄な美祢は文字通り宙に浮いていた。
  1度目のキスが拒まれなかったので、次はずっとやさしく柔らかくなった。  二人は何度も口づけし、鼻をこすり合わせたり首に頬ずりしたりしていた。
  そのとき、階段のほうから硬い声がした。
「杉江さん、葬儀社の人が来ましたよ」
  美祢は真っ赤になって勤の腕から離れた。 だが彼はすぐ美祢の手をぎゅ っと握って引き戻し、にらんでいる看護師をまっすぐ眺め返した。 その 視線を外さないまま、勤は澄んだ声ではっきりと言った。
「大丈夫だよ。 俺がついてるから」
  勤の表情からは影が消え、美しすぎるほど輝いて見えた。


―終―





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