美弥 (みや) はいつもの通り、喫茶店『ポマロ』の奥の、一番人目につかない 隅にひっそり腰をおろし、片肘をついて顔を隠すようにしながら友人を待っていた。  鉢のドラセナの陰になっている左の頬には、青黒いあざがついていた。
  やがて手をあげながら現れた友人の智子は、その頬を見て顔をしかめた。
「美弥、もう限界じゃない?」
  うつむいて、美弥は小さくうなずいた。
「彼はもうだめよ。 立ち直れないよ、あなたがいる限り」
「はっきり言うわね」
「そうなんだもの」
  びしっと言い切ると、智子はやや乱暴にコートを横に置いた。 そして、注文を 取りにきたウェイターに笑顔を向け、カフェオレを頼んだ。
  心配に胸をふさがれながらも、美弥は智子の満面の笑顔に目をひかれた。
「どうしてそんなに愛想よくするの? ここではいつもそうね」
「きまってるじゃない! あんな美形、めったにいないよ!」
  美弥は顔をしかめた。 美弥はそのウェイターの顔をまともに見たことがな かった。 彼がいつも美弥をじっと見ているように感じられるのだ。  あざなど作っておどおどしている自分が、好奇心と、もしかしたら嘲りの 的になっているのではないかと思い、美弥は彼の視線が重荷だった。 それなのに 智子はこの喫茶店にしか来ようとしない。 彼がいるからなのだ。
「きれいな男の子はもてるから、情がないっていうわよ」
「あの子はちがう。 気配りがいいし、やさしそう」
  勝手に決めて、智子はにやにやした。
「ナンパしちゃおうかな」
「やれば?」
  美弥はそっけなく言った。 それどころじゃない。 昨夜は殺されるんじゃな いかと思ったのだ。 裸足で家から逃げ出して、公園のブランコに座っていた。  明け方にこっそり戻ると、洋次は和室で大の字になって、いぎたなく眠りこ けていた。 美弥はコートを引っかけ、財布をつかんでミュールに足をはめこ むのももどかしく、足音を忍ばせてまた出てきた。
  それからは帰っていない。 食事もしていない。 もう午後の4時なのだが。
「独身時代に貯めた通帳が見つかんないうちに家を出なさい。 私のところへ来ていいよ」
「ありがとう」
  そうしたかった。 だが、無理なのはわかっていた。 親友の智子の住所なら 洋次も知っている。 智子まで危険にさらしたくなかった。
「もう少し我慢してみる。 もう3ヶ月だけ。 失業保険は切れたし、これで兄弟から借 りたお金も底をついたら、あの人も考えると思うから」
  不安げに智子は首を振った。
「よしたほうがいいと思うよ。 ほんとに怪我させられるよ」
  努力して、美弥は笑顔を作った。
「大丈夫。 しらふのときはおとなしいんだから」
「情けない。 クズだ!」
  智子は容赦なかった。 2ヶ月前なら美弥は顔をしかめただろうが、今はうな ずきたい気分だった。

 結局、何の解決策も出せなかった。 いつもそうなのだ。 ぐちを聞いて もらうだけ。 でも、そういう相手が一人でもいることを、美弥はありがたい と思っていた。
  今日はコーヒー代まで智子が払ってくれた。 辞退したのだが聞き入れない。
「お金は大事よ。 いざとなったら百円でなんとか1食くえるんだからね」
  などと言いながらレジに行った智子は、小さな白いものをぶら下げて出てきた。
「ほら、忘れ物」
  携帯電話だった。 1ヶ月前に移った安アパートには家庭電話は引いていない ので、携帯は必需品だ。 美弥はあわてて受け取った。
  その表情を見ながら、智子はしみじみと言った。
「変わったねえ。 前は注意深くてめったに忘れ物なんかしなかったのに。  こんなに上の空になっちゃって」
  美弥は一言もなかった。

 うじうじしてるんじゃないわよ、という乱暴な励ましを背に、美弥は 家に帰った。
 それから1ヶ月は、まあまあ平和な日々が続いた。 洋次はタクシーの 仕事につき、わりと真面目に働いている、ように見えた。
  だが1ヶ月目に、大ゲンカした。 相手は会社の同僚。 酒の上のことら しく、青鬼のようになって帰ってくると、手当たり次第にものを投げつけた。
  どうやって逃げ出したか、よく覚えていない。 気がつくと、はだしで車道 の端を歩いていた。
  すっと青い車が寄ってきた。 洋次が勤めている会社のタクシーだ。 運転 席から顔を出したのは、2度ほど会ったことのある、酒木という中年男だった。
「どうした」
  そう言って微笑した顔が、闇夜を照らす灯りに見えた。

   半月後、美弥はしばらくぶりに、智子と『ポマロ』で待ち合わせした。  智子はすぐやってきて、美弥を隅っこに隠すようにしながら忠告した。
「ここはやめよう。 美弥の元亭がときどき探しに来るらしいから。 てい うか、まだ元亭じゃなかったか。 離婚してないもんね」
「そうなの?」
  ぎょっとなった美弥は、すぐに智子に連れられて新しくできたカフェバーに 移った。
  斬新なデザインの椅子に腰をおろしながら、智子は言った。
「どうせあの店に行ってももう楽しみがないから」
「なぜ?」
「あのかわいいボーイ君、やめちゃったの」
「ふうん」
  美弥は驚いた。
「この不景気に簡単に辞めるのね」
「もっと金かせげる仕事に移ったんじゃない?」
  智子は笑った。
「ホストとかさ」
  なんとなく違和感があったので、美弥は自分の話題に切り替えた。
「あのね、私……」
「仕事なら世話するよ。 それがアタシの仕事だもん」
  智子はこともなげに言った。 美弥は微笑み、首を振った。
「パートをふたつ見つけたから」
「それに男も」
  智子がずばりと言ったので、美弥はたじろいだ。
「ええと……」
「なんでしょ?」
  しかたなく、美弥はうなずいた。
「アパート借りるのに保証人がいるし、敷金が足りなかったし」
「おいおい」
  智子は心配そうだった。
「美弥はね、もっと自分を大切にしていいよ。 見かけマドンナなんだから。  大学のとき、そう言われてたっしょ?」
  唇を噛んで、美弥はうつむいた。
「あれから何年経つと思う? もう『神秘的な雰囲気』なんてカケラもないよ」
「そうでもないけどね」
  もうアザはなく、薄化粧してすっきりとなった美弥の顔をながめて、智子は 考え深げにつぶやいた。
「もしも私がキミならきっと……」
「智子みたいになりたかった!」
  不意に美弥が衝動的に言った。
「さっとなんでも自分で決めて。 そういうのにあこがれてた」
  智子は苦笑した。
「ないものねだり。 こういう性格だと風当たりも強いの。
  それよりさ、どんな男?」
「え?」
「新しい相手」
「うん」
  話しにくかった。 40過ぎで既婚者。 会社では稼ぎ頭らしいが、金持ちっ てわけではない。 ただ、子供がいない分、小金は貯めていそうだった。
「好きなの?」
「うーん」
  嫌いではない。 週いちで尋ねてくるときは待ち遠しかった。 やさしいから 。 洋次と比べればはるかにましだった。
「ましって……そういう発想か、アンタ」
「疲れてるのよ」
  ほんとにそうだった。 疲れすぎて、深くものごとを考えたくなかった。  少なくとも酒木は堅気で、まじめに働いている。 軽く付き合うには 悪くない相手だった。
「バカ! 男を軽く考えるんじゃない! 別れるときに騒ぎになっても 知らないよ!」
「そのときはそのとき」
  美弥は投げやりに言った。

 うす曇りの日、美弥は珍しくコンビニに行った。 コンビニは便利だが 正価で売るから、普段はスーパーの特売をねらって買っている。 でもこの 日は仕事が多く、遅くなって家に帰る時間がなかったので昼食用にお弁当を 買おうと思ったのだ。
 少し見比べて、サンドイッチにした。 そして、近くの児童公園に行っ て、ベンチに座ってひとりで黙々と食べていた。
 隣のベンチにだれかが座る気配がした。 見るともなく目をやった美弥 は、長い脚をジーンズに包んだ若者が、バドをごくごく飲むのを目撃した。  さらっとした髪の毛がそよ風にゆれている。 整った横顔が見覚えある気 がして、思わず美弥はじっと見つめてしまった。
 美弥の視線を感じたのだろう。 青年は空き缶を握りながら顔を向けた。  無表情なそっけない顔。 挑むような眼。 ちょっと見られただけで不愉快 そうににらみ返すところが、いかにも今どきの無愛想な若者だった。
 それにしても、まだ午前中だというのに元気がない。 もう少しいきいき していたら相当な美男だろうと思われたが、今のところ死にかけの魚のように 生気に乏しかった。
  目が合うと、彼は少し頭を下げた。 それで美弥は思い出した。 さっき弁当 を買ったコンビニの店員だ。 疑問が解けたのでほっとして、美弥も軽く会釈 を返して、また正面に視線を向けた。 青年は立ち上がり、屑篭に缶を投げ入 れて歩き去った。 缶が屑篭の縁に当たって乾いた音を残した。
 数日後、美弥はまたその店に買い物に行ったが、青年はいなかった。 そ の後も何回か前を通るときにのぞいてみたが姿を見なかったので、やめたのだ ろうと思った。 挨拶されたために印象に残っていただけではなく、あの影の 薄さが心に入り込んできたような気がして、美祢はちょっと悩んだ。 人のこ となんか心配している場合ではないのだが。  ほんとに今の若い人は簡単に転職するんだから、と、自分もまだ若いことを 忘れて美弥は考えた。

 3月に入ってから、美弥は無言電話に悩まされるようになった。 相手は 自宅からかけているらしい。 かすかに時計が時報を音楽で告げるのが聞こえ た。
  2回同じ目に遭った後、美弥は不通知の電話に出なくなった。 一人暮らしだ と何かと不安だ。 だからその日、たまたま家にいたときにかかってきた電話 にも、出るかどうするか迷った。
  番号ははっきりと画面に出ていた。 それで一応通話にした。 あることが起 きていたので、誰でもいい、人の声が聞きたかったのだ。

 1時間ほど前のことだった。 午前の仕事から戻ってきてポストの郵便物 を出し、知らない女性名前の封筒をなにげなく開いたとたん、指にかすかな痛 みを感じたので視線を落とした。 なんと一筋すっと切れて血がにじんでいる 。 剃刀の刃が仕掛けられていたのだ。
  こんなことをする人間には、ひとりしか心当たりがなかった。 たぶん酒木の 妻だ。 夫の浮気相手を見つけ出したのだろう。
  古典的な嫌がらせだが、効果的だった。 ハサミで封を切ればよかったと思い ながら、美弥は明るいところで刃先を調べた。 毒がぬってあったらと心配だ った。
  さすがにそこまではしていないようだが、不気味なことに変わりはない。 美 弥の心は不安定になっていた。

 だから電話に出てしまった。 まず聞こえたのは、当たり前のことばだっ た。
「もしもし……」
  気持ちのいい男性の低い声・・・・美弥は思わず電話を強く握った。 耳から じかに心に届く、そういう声だった。
「はい」
「あの……ちょっと話していいですか?」
  勧誘だ。 だが美弥はその声にしがみついた。 なんでもいい、人の声が聞き たい。
「ええと、ちょっとなら」
「ほんとに?」
  声が弾んだ。 美弥はちょっとびっくりした。 かわった勧誘員だ。 喜ぶな んて。
「あの……そう言われると、何話していいか……元気ですか?」
  あれ……もしかすると昔の知り合いかも。
  学校時代の友達かな。 美弥はそっと尋ねてみた。
「私と知っててかけてきたんですか?」
  電話は少しの間沈黙した。
「……いえ、ただ人の声が聞きたくて」
  この人も孤独なんだ、と美弥は悟った。 適当にかけまくっていたら通じたの だろう。
  イタズラ電話に近い通話だったが、美弥は切らなかった。 声が気に入ったか ら。 それに上品な話し方も。
「そう…… 学生さん?」
「いや、社会人です」
  この半端な時間にかけてくる社会人……サラリーマンではなさそうだった。
「なにか話してください」
「私が?」
  美弥は当惑した。 なんで自分が話題を見つけなければならないのだ。
「何でも聞きます。 声が聞きたいんです」
  妙な人、まあ初めからそうだったけど・・・・誰かわかっていない気楽さで、 美弥は思わず口にしていた。
「あのね、すごく変なこと話してもいいですか?」
「いいですよ」
「あの、封筒に剃刀入ってたんですよ」
「いつ?」
「今日。 ちょっと指切れちゃって」
  相手の声が鋭くなった。
「心当たりは?」
「ええと」
「あるんだ」
  美弥は息を吸い込んだ。 相手の声がまたおだやかになった。
「指に目立つ包帯かなんかして出るといいかもしれない」
「え?」
「相手はヤッタと思うでしょう? もし見張ってたら。 少しは気持ちがすっ として、しばらくは何もしないかも」
  そういう考え方もありか。 何か納得がいって、美弥は笑い出したくなった。  笑う場合ではないのだが、やはり神経が興奮しているのかもしれない。
「やってみます。 ありがとう」
「気をつけて。 ほんとに襲われそうになったら俺に電話してください」
  過剰に親切。 信用はまったくしていなかったが、美弥はちょっと微笑んでし まった。
  やがて声は遠慮がちに言った。
「明日電話してもいいですか? 心配だから」
  断るべきかもしれないが、美弥にはできなかった。
「ええ。 じゃまた明日に」

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