表紙

もぐら V-2


 子育ては金がかかる。 このご時世だから、正規社員の仕事を辞めるのは損だ。 というわけで、聡子はこれまで通り弁当工場にせっせと通った。
 うまく行ったのは、新しい育児園がすぐ見つかったことだった。 二人のアパートにわりと近く、聡子が先に光毅を渡していった後、帰ってきた亮が途中で引き取ってくる。 前よりずっと預ける時間が短くなって、光毅の機嫌もそれだけよくなった。


 亮は光毅を宝物のように可愛がった。 自由に会わせてもらえなかった期間が長かったため、いっそう愛情がつのったのかもしれない。 新生児教室に何度か顔を出し、聡子が工場に出ている間のミルクやおむつの世話も、しっかりとやった。
 夫婦として入籍してから法律相談へ行って、父親が認知していれば正式な結婚後に子供も嫡出子になる、とわかったときは嬉しかった。 これで光毅のスタートラインは、他の子と揃ったわけだ。 戸籍の書き換えが済んで、聡子は大きな重石が取り除かれた気持ちがした。


 こうなると、一家の幸せに影を落としているのは、亮の実家の問題だけになった。
 結婚後、少し時間を置いてから、亮が聡子と目を合わせずに打ち明けたことがあった。 それは、入籍を許す条件として、父親が亮に約束させたことだった。
 聡子に実家の敷居をまたがせない。
 それが、自殺した浩〔ひろし〕へのけじめだと、父親は言った。


「その時は売り言葉に買い言葉で、それなら光毅もこの家には連れてこない、と言っちゃったんだ。 聡ちゃんが悪いんじゃないんだから」
 悪くない?
 亮がその言葉を口にしたのは、初めてだった。 そろそろぐずりが始まって、なかなか寝ない光毅を抱いて、部屋の中をあやして回っていた聡子は、思わず立ち止まって、新婚の夫の顔に視線を釘付けにした。
 室内着のポケットに両手を入れて、亮は妻をじっと見返した。 どこか訴えるような目の色だった。
「兄貴は昔からもててたから、たぶん聡ちゃんにも愛されて当たり前だと思ってたんだ。
 でも、初めて振られた。 そんなはずないと言ってたよ。 他の男に目移りしても、きっと戻ってくるって」
「目移りなんかじゃなかった」
「うん。 ほんとはわかってたんだ、きっと。 ふつう、振られたらクソッてなって、もっと素敵なのと付き合って見返してやる、と思うだろ? あのころ兄貴は、どっかの重役の娘に追っかけられてると自慢してたんだから、そっちを選ぶ手があったんだ。
 でも、そうしなかった。 それじゃ仕返しにならないからだ。 兄貴が金持ちの美人と結婚したら、聡ちゃんどう感じた?」
 聡子は立ち止まり、ほんのりと乳くさい光毅のよだれかけに顔を埋めて、濁った声を出した。
「ほっとして、嬉しかったと思う」
「やっぱりな」
 そう呟くと、亮はつかつかと歩み寄って、子供ごと聡子を抱いた。
「兄貴の場合、プライドが高すぎたんだ。 普通に、もっと若いうちに失恋しとけば、最初の失敗で人生投げちゃうことはなかった」




 正式な夫婦になったのに、周囲に黙っているわけにはいかない。 二人は相談し、婚姻届だけの地味婚だと葉書に印刷して、ごく身近な人たちに送った。
 すると、亮の学生時代からの友人が、思わぬ返事をよこした。 協力するから、披露宴をやらないか、という誘いだった。
 うちのレストランで、肩の凝らないデザート・ビュッフェ形式でやれば、三千円の会費で充分元が取れる、と薦められて、聡子より亮のほうが乗り気になった。


 来客には、おめでとう色紙にサインの寄せ書きをしてもらうことにした。 客のお祝いはそれだけで、スピーチや歌の義務はない。 もう一人の友人が映画関係者で、明るい場所でもくっきり見える巨大スクリーンをレストラン内に設置して、名画のロマンス・シーンをバック・ミュージックつきで流してくれることになった。 これで飽きることなく、二時間ほどの昼食会はスムーズに終わるだろう。


 聡子は、学生時代の友達数人と、今の職場の人たちだけを呼んだ。 誰も浩とのいきさつを知らない人々を。
 亮のほうも、そうしていた。 だから小規模な披露宴はなごやかに進んだ。 贈り物はあらかじめ辞退しておいたが、工場のおばさん達と、いつもは仏頂面の社長が、お金を出し合って清楚な百合と薔薇の花束を持ってきてくれて、聡子は感激した。


 メインの料理が終わると、十二種類のケーキから選び放題デザートが開始され、客たちは自由に歩き回って、新しい話の輪があちこちにできた。
 子育て最中や、既に終えたおばさん達が、籠で眠る光毅を見ていてくれたので、聡子もケーキを選ぶ人たちの列に加わった。
 そのとき、横に和服姿の女性が、すっと並んだ。 何気なく顔を上げた聡子は、息が止まりそうになった。
 間近に立っていたのは、亮と浩の母親、美奈子〔みなこ〕夫人だった。


 正式な絽の訪問着姿で、夫人は自分よりいくらか上背のある聡子の顔を、首をかしげるようにして見た。 さすがに笑顔はなかったが、眼差しは穏やかで落ち着いていた。
「亮が招待状をくれたの。 だから来ました」
「ありがとうございます、本当に」
 緊張感でしゃっくりしそうになりながら、聡子は懸命に挨拶した。 夫人とは、前に二度ほど会ったことがあって、お互いにしっかりと見覚えていた。
 手にしていた扇子を帯に挟むと、夫人は静かに続けた。
「息子をよろしくお願いします。 幸せになってね」
 もう言葉で答えることができず、聡子は深々と頭を下げた。 正式な挨拶が済んで、夫人も安堵したらしく、声を明るくして、周りを見渡した。
「それで、光毅ちゃんは来てる?」
「はい。 あそこに」
 ドラゴンたちがしっかり守っているバスケットを、夫人は苦笑ぎみに眺めた。
「顔を見せてもらって、いいかしら?」
「はい! すぐ連れてきます」
 急いで、聡子はシルクのベビーウェアに包まれた我が子を抱いてきた。
 赤ん坊を受け取ったとたん、夫人の表情が変わった。 囁くような声が言った。
「まあ、写真よりずっと、亮に似てるわ」
 ぱちぱちと瞬きして、夫人は一段と声を落とした。
「小さいときのあの子そっくり。 それに」
 不意に話し止めたが、聡子には直感的にわかった。 赤ん坊には、浩の面影もあったのだということを。
 嬉しくも、光毅は夫人に抱かれて機嫌がよくなり、目を糸のように細めて笑い声を上げた。 夫人は喜び、軽く持ち上げてあやした。
「よしよし、元気だねえ、光毅ちゃん。 ばーばが好き?」
 話しかけられた光毅は真顔になり、大きな瞳を祖母に据えた。 哲学者のようないかめしい表情で、少しの間見つめていた後、また弾けるような笑顔に戻ると、赤ん坊はたくまずして見事な外交能力を発揮し、ハニャーというような声を発して、大きく両手を動かした。
 これで光毅は、祖母の愛を永遠に手に入れた。


 美奈子夫人によれば、父親の京二〔けいじ〕氏が車で送ってきたという話だった。 亮はそれを聞いて、会いに行ったという。 聡子は息を吸い、父と子が喧嘩にならなければいいがと考えた。


 注意して出入り口を見ていると、やがて亮が姿を現した。 誰も伴ってはいないが、笑みを浮かべている。 周りに挨拶しながら母と妻の傍に来ると、亮は低い声で話し出した。
「もう息子の祝いの席に出ることはないんだと気が付いたら、虚しくなったと言ってた。 ちゃんと口には出さないけど、出入り禁止なんて言ったの後悔してるみたいだな」
「光毅ちゃんがもうちょっと大きくなって、お出掛けできるようになったら、みんなでどこかへ行けるといいわね。 空気のいい、景色のきれいなところへ行けば、ガンコじいさんも素直になるかも」
 美奈子夫人はさっぱりした口調で言い、光毅を聡子の腕に返した。
「じゃ、長く待たせると機嫌が悪くなるから、またね。 亮、仕事しっかりね」
「はい」
 亮は真面目に挨拶して、聡子の手を取り、エントランスまで母を送っていった。
 出入り口の前で、美奈子夫人は不意に袂から小さな包みを取り出して、聡子に渡した。
「これ、喜んでもらえるかわからないけど、私たちの気持ちよ。 持ってて」
「ありがとうございます」
 それは、細長い手帳のような形の包みだった。
 

 手作り感が温かい披露宴を無事に終え、客たちの拍手に感謝して見送った後、亮と聡子はセッティングしてくれたレストラン・オーナーの友人に手厚く礼を述べてから、家路についた。
 車内で開いた美奈子夫人の包みには、光毅名義の積み立て預金帳が入っていた。 手紙が添えてあって、将来の学資の足しにしてください、と書かれていた。
「いいお母様ね」
 聡子が溜息のように言うと、亮がすぐ返した。
「けっこう気が強いし、めちゃくちゃ言うときもあるよ。 でもまあ、悪い人間じゃない」
「私もちゃんとしなくちゃ。 しっかりした家庭を築いて、これ以上心配かけないようにしないと」
「そう深刻に考えるなって」
 手が伸びてきて、聡子の膝を押さえた。
「聡ちゃんは聡ちゃん。 いつも一生懸命だから、そのままでいいんだ」
「少しは努力させて」
「倒れなければ、な」
「それじゃかえって迷惑かけちゃうものね」
「俺ももう少し努力する。 それであいこだ」
 うなずいてから、聡子はそっと膝の上の手に自分の手を重ねた。
 こんな風にずっと幸せでいようね、と心の中で呟きながら。




〔終〕





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