表紙
もぐら 1

 


 高塚聡子は、小さな仕出し弁当工場で働いていた。 顔色が悪く、 黒縁の眼鏡をかけ、おまけに無口で愛想に欠けるため、《もぐら》などと いう失礼な仇名を密かに奉られていた。
  もう長いこと美容院に行っていない。 ランバンの口紅は引出しの中に2年以上 転がったままだ。 半分『夜の仕事』なので人目につかず、 きれいにする必要がないのだ。

  工場に勤めているのは既婚者が多い、というより ほとんどだが、聡子は独身だった。 それなのに子供が数人いる人より地味な 格好をしているので、最初は不思議がられた。
 
  最近ではそれもない。 ねずみ色のTシャツに980円のウェスト・ゴムのパンツで通勤してくるのを見ても、不思議がらなくなった。
「ああ、もぐらちゃんだからね」
  すでに仇名は秘密でさえなかった。


 新人の配送員が来たとき、奥さん従業員達はちょっと色めき立った。 六月の蒸し 暑い夜に、ふっと清涼感のある風が吹き渡ったような青年だったから。
  長身で、豹に似た精悍な顔立ちのその青年は、きびきびとよく動き、 前任者の半分の時間で車に積み込んで出発していった。
  従業員たちはため息をついた。
「もっとゆっくりやればいいのに」

 数日後の午後、聡子はトートバッグを肩にぶら下げて、アパートの部屋を出た。  勤務時間は午後の4時から夜の11時半までという変則的なもの。 他の奥さん たちとちがって一応正社員だった。
  階段を降り切ったところで、忘れ物に気づいた。 たいしたものではないので、 戻ろうかやめようか決めかねていて、注意力が薄れた。
  足が一歩出たとたん、誰かにぶつかった。 ゆるくかけていたバッグが 肩からずり落ちて、だらしなく開いた口から中身が敷石に散乱した。
  その上に、相手の持っていたパンフレットが散らばって、あっという間に階段 下は地面が見えないほどになった。
「すみません」
「いえ、俺も不注意で」
  お互いにあやまりながら拾い集めていると、急に相手が嬉しそうな声を立てた。
「あ、この間クスヤマ工場で会いましたね」
  聡子は目を上げた。 なめらかで引き締まった顔が微笑みかけていた。 たしかに ぼんやりと覚えがあるような気がする。 しかし、相手に聡子の記憶があるほうがはるかに不思議だった。
  男は付け加えた。
「陽京運送の者です。 4日前にお宅の工場に行きました。 覚えてます?」
「はあ……」
  聡子は当惑した。 運送会社の人が、一抱えもあるパンフレットを持って、 ここで何しているのだ。
  聡子の視線が紙の山にそそがれているのに気づいて、青年は照れ笑いをした。
「あ、これ? セールスです、うちの会社の。 仕事ついでに配っておくと、 案外効果があるんですよ」
  気さくだ。 聡子がたじろぎ気味なのに、無邪気に明るく話しかけて くる。 一番苦手なタイプだった。
「あの、私……仕事があるから……」
「そうだ、俺も!」
  なぜか軽く手を上げて、青年は小走りに去っていった。


 二度あることは三度あるという。 それから2週間ほどして、 聡子はまたこの青年に会った。 7月が近くなって湿気の多い夜で、 自転車をこぎながら、聡子はときどきハンカチで汗を拭いていた。
  踏み切りで、通り過ぎる青い電車をぼんやり眺めていると、声をかけられた。
「やあ、また会いましたね」
  横を見ると、背の高い男が立っていた。  初め聡子は、誰だか分からなかった。 作業服姿しか見たことがなかった のに、その夜の青年は真っ白なTシャツにチェックのオーバーシャツを 重ね着して、ひどく若く見えた。
  並んで踏み切りに立ちながら、彼はごそごそと袋を探って、大きなアイス クリームのコーンを取り出した。
「今そこのコンビニで買ったんです。 ひとつ食べませんか?」
  聡子はあっけに取られた。
「でも、あの……」
「一人で立ち食いするのも気が引けるんで。どうぞ」
  否も応もなかった。 いきなり巨大なコーンを渡されて、聡子はどうしたら いいかわからなくなった。
「かじって、上から。 今夜は暑いから、すぐ垂れてきますよ」
  この人、面白がってる、と聡子は思った。 だが、彼の陽気な笑顔は 嫌いではなかった。 そっと一口食べてみると、味はなかなかのものだった。
「おいしい、です」
「でしょう?」
  青年は満足そうに笑った。
  彼が片手を添えてくれて、二人で自転車を支えあう形で踏み切りを渡った。  豪快にコーンをかじりながら、彼は尋ねた。
「もう5時過ぎだけど、今夜は仕事に行かなくていいんですか?」
「……定休日で」
「そうか。 ね、知ってます? 俺の仕事、決まった休日ないんですよ。 人が 休みのときは逆に忙しかったりして。 うらやましいな」
  青年はちょっと落ち込んだ風だっだが、すぐ気分を変えて、陽気に続けた。
「俺の家、この先なんです。 あのアパートで……そうだ! まだ名前言って ませんでしたね。 田口です」
  聡子は瞬きした。 個人的にあまり親しくなりたくなかった。
  男は無邪気にねだった。
「近所だからまた会うかもしれないし、名前ぐらい教えてくださいよ」
  下を向いて、聡子はしぶしぶ答えた。
「高塚です」
「高塚って……以前有名だった、あの超能力者の高塚さんと同じ字ですか?」
  なんとなくおかしくなって、聡子は微笑した。
「字は同じですが、超能力なんてかけらもありません」
  田口は聞いていなかった。 じっと聡子を見て、早口で言った。
「笑うと顔が変わりますね」
  さっと聡子の笑顔が引っ込んだ。 田口は構わず続けた。
「笑ったほうがずっといいな」


 それから町で会うことが度重なった。 あまり会うので偶然とは思えなかった し、田口もわざとやっているのを隠さなかった。
  だんだん聡子は彼から逃げ切れなくなった。 顔を見るとなんだかほっと するようになり、次第に心待ちにし始めた。 孤独で真っ暗だった5年間の つけが、どっと回ってきた感じだった。
  田口は25歳ぐらいだった。 聡子より4年ほど年が下だ。 大学なら一緒に ならない年齢差だ、と聡子は思い、なぜこんな若い子が、自分のような 冴えない年上女をナンパしようとしているのだろうといぶかった。 
  もてないタイプの男なら少しはわかる。 だが、田口はスマートで 現代的な美男で、並んで歩いたら自慢できるぐらい格好よかった。
  そのせいで、かえって聡子は用心深くなった。 なかなか田口になじまず、 昼食を一緒にするまで一ヶ月以上根気よく誘わなければならなかった。  しかし田口は全然めげないで声をかけてきた。 手をつないで歩こう とまでするので、聡子は閉口した。
  夏が過ぎ、秋になって、田口のたゆまぬ努力はようやく報いられた。  聡子は遂に彼に、そして自分の心に負けた。 田口の大きな手のひらと、 邪気のない笑顔と、広い肩幅を、聡子は何より好きになっていた。
  二人は、男のアパートで結ばれた。 聡子は固くなって、ほとんど 何もできなかったが、一度だけ、田口の目にかかった前髪をそっと 指先で上げた。 彼は微笑した。 きれいな笑顔だ、と、そのとき、 聡子はふっと感じた。

 2ヵ月ほど関係が続き、聡子は求婚された。 彼女は言葉を 失った。 ただの遊び相手、とまでは思わなかったが、そこまで 愛されているという実感がなかったのだ。
  だが、聡子のほうは愛していた。 自分でもはっきりと自覚していた。  実行したことはなかったが、田口が、今夜はごちそうしてあげる、 と陽気に言いながらスパゲッティを作ったりしているとき、背後から 抱きしめたくなることが何度もあった。
  ずっとこの人と一緒にいられるなら…… 聡子は心臓が飛び出しそうに なるほど緊張しながらも、ごく低い声で、結婚を承諾した。

  田口は喜び、せっかちな気性丸出しで、式場や新婚旅行先、それに 新居のマンションまで、聡子に相談しながら手配しはじめた。  あれよあれよという間に未来が開けていくのを、聡子は半ば 茫然として見守っていた。
  式は12月初めに決まった。 二人は貯金を出し合って賃貸マンションを 借りた。 半信半疑だった幸せに、聡子がようやく安心してひたり始めた とき、田口が消えた。

  ブライダルホールでの説明会を、田口が無断で休んだのが始まりだった。  携帯に電話をかけても通じない。 アパートは引き払っている。 思い切って会社に連絡すると、 田口亮という名前の社員はいないと言われた。
  電話を持ったまま、聡子は立ちつくした。 最初は何が起きたのかよくわからな かった。 結婚詐欺? ありえない。 聡子は彼に一円の貸しもなかった。  たしかにマンションの頭金は半分払ったが、契約書は本物で、しかも 田口の失踪から3日後に解約され、金は聡子の口座に払い戻されていた。  律儀なことに、式場の予約はきちんと断ってきて、違約金まで支払ってあった。


  いくら待っても連絡はなかった。 これで1つだけはっきりした。 聡子は、 捨てられたのだ。

表紙 目次次頁
Copyright© jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送