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もぐら 2



  表面何の変わりも見せず、聡子は工場に通った。 もともと顔色が悪く、口数が少ないので、誰も聡子の絶望に気づかなかった。 会社の人間に田口のことを一言も話さないでよかった、と聡子は思った。 今考えると、どこかで予感がしたのかもしれない。


  数日後、いつもの日が来た。 浜中浩の祥月命日だ。 いつにも増して暗い心を抱いて、聡子は花束を手に、墓地に向かった。
 
 年の命日でもないのに、墓はきれいに清掃され、大きな花束が両側にいけてあった。 こんなことは初めてだ。 とまどいながら、聡子は墓の端にそっと、持参した花束を置き、線香に火をつけた。
 
 墓前にぬかずくと、涙がにじんできた。 浜中と結婚できたら、たぶん人並みの悩みしかない平穏な人生を送れたはずだった。 もう5年になるが、聡子は未だに立ち直れないでいるのだった。
「結婚するつもりだったの」
  黒っぽい墓石に、聡子は小声で話しかけた。
「でも相手が心変わりして、どこかへ行っちゃった。 当然の報いね」
  そうなんだ、と聡子は自分に言い聞かせていた。


 2日後、いつも通り出勤しようとして、聡子は郵便受けからぽとりと手紙が落ちるのを見た。 横長の四角い封筒で、差出人は《浜中亮》と書かれていた。
  浜中……! 聡子は大急ぎで封を切った。 中には手紙はなく、一枚の写真が玄関に舞い落ちた。 かがんで拾い上げた聡子の手が、しびれて動かなくなった。
  それは、若い男が二人で肩を組んでいる写真だった。 冬なのだろう、暖かそうなセーターを着ている。 紺色に雪模様のパーカー風セーターは、浜中浩だった。 そしてグレーの縄編みは、まだ子供子供した田口亮の姿だった……
  ゆっくり封筒を裏返して、もう一度名前を確認して、聡子は玄関にしゃがみこんだ。 浜中亮……浜中…… 田口亮は、浜中浩の弟だったのだ。
  そのまま聡子は、玄関の上がりかまちに横たわった。 涙は出なかった。 その代わり、うめき声が口から漏れた。
「バカねえ、復讐するなら、もっと用心してやってよ。 あんたの子供ができちゃったのよ」
  聡子は妊娠3ヶ月だった。
 
 堕ろすつもりだった。 だが、浜中一族の子供だとわかった今、聡子にはこの赤ん坊を闇に葬ることができなくなっていた。 もうすでに一人殺しているのだから。
  5年前、聡子は中堅印刷会社の社員で、2年先輩の浜中浩と交際していた。 聡子のほうには積極的な気持ちはなかったが、浜中は本気だった。 何度も求愛されて、聡子は迷った。 今考えると、はっきり断るべきだったのだ。 そのほうがかえって親切だった。
  だが、相手の心を傷つけるのがいやで、聡子はずるずる付き合いを続けた。 結婚の申し込みも承諾してしまった。

  破局は思わぬ形で来た。 もう将来を約束したのだからと、浜中は聡子を部屋に呼んだ。 もちろん合意の上だった。 それなのに、聡子は一回で懲りてしまった。
  しばらく逃げ回った後、聡子は頭を下げて婚約破棄を申し出た。 浜中は納得しなかった。 いくら問いつめられても、うまく説明できない。 ついに聡子は会社を辞めて、浜中の前から姿を消した。
  翌月、新聞に、浜中がビルから飛び降り自殺をしたという記事が、小さく載った。

 あの日以来、恋をしたことはなかった。 というより、生まれてから男を好きになったことは、浜中を含めて一度もなかったのではないかと、聡子は自覚していた。
  たぶん田口が初めての恋人だった。 彼だけには触れたかったし、キスもしたかった。 同じ両親から生まれた兄弟なのに、なぜこんなに違うのだろう。 聡子は考えたくなかった。


  再び地味なもぐらの生活が続いて、春になった。 そろそろおなかが目立ちはじめ、同僚たちが注目しているのがわかったが、もともと評判が悪いのは承知しているので、ひそひそ陰口をきかれるぐらい、気にもならなかった。
  夏には子供が生まれる。 親のない聡子には相談相手がいないので、育児書を買い、店を回って少しずつベビー用品をそろえた。 田口とマンションを借りたときの手付金が戻ってきてよかった、と素直に思った。 出産費用にあてることができる。
  聡子は《田口》を探さなかった。 不意に消えた後、一度も積極的に探したことはなかった。 心のそこでは彼を信じていなかったのかもしれない。 男の芝居を見抜く寂しい目が、どこかに隠れていたのだろう。
  眼鏡を取って鏡を見るとき、聡子はときどき考えた。 今でもメイクをすれば見られる顔かもしれないと。 元の会社では、3美人のひとりに数えられていた。 田口と付き合っている間は、おしゃれしたいといつも思った。 だが気恥ずかしくてできなかった。 この野暮な姿で声をかけられたのだから、これでいいのだと思っていた。 
  今では考える。 一度、ちゃんとした姿を見せておきたかった。 一度だけでも、おやっと思わせたかったなあと。


 5月、浜中浩の本命日、用心して暗くなりかけた5時過ぎに、聡子は墓地に到着した。
  花はいつもと違い、バラにした。 臨月が近いので、かがむのが辛い。 立ったままで頭を下げると、いつも通り話しかけた。
「あと一ヵ月半なの。 順調だって。 もう男か女かわかるんだけど、聞かないの。 生まれたときの感激が薄くなるでしょう?
  本当は怖い。 でも動物はみんな一人っきりで産むんだから、甘えたことは言ってられないわね。 それに、生まれた後のほうが大変だろうし」
  死人にしか相談できないなんて・・・・聡子の口元に、自嘲的な笑いが張りついた。 幸い社長は、聡子が未婚の母になるのに気づいても、何も言わない。 同情しているらしかった。 もてない女が筋書き通りに振られて苦労してるんだ、とでも思っているのだろう。 だから仕事を失う心配はなかったが、貯金は3百万程度で、産休はあまり長く取っていられなかった。 いい託児所を早く見つけなければ、と、ちょっと聡子はあせっていた。

 浜中の好きだったバーボンの小瓶を墓の前において、聡子は踵を返した。 ゆっくり歩いて、墓地の外れの林まで来たとき、目の前に、不意に男が立った。

 顔を上げる前から、誰かわかっていた。 聡子は反射的に後ずさりすると、くるりと向きを変えて墓地に引き返した。 迫ってくる足音がするので、走り出した。
  あっという間に男は聡子を追い越し、前に立ちふさがった。 胸が大きく波打っている。 荒い息が言った。
「走っちゃだめだ。 あぶない」
「やめてよ、いまさら」
  聡子は目をつぶって言い返した。
「会いたくないからこの時間にしたのに。 そこどいて。 工場に7時までに行かなきゃいけないの」
  男は脇にどいた。 相手の顔を見ないまま、聡子は歩き出した。
  そのとき、背後から声がした。
「ひとつだけ教えてくれ。 なせ兄さんを振った?」
  聡子は立ち止まった。 思い出して、軽い頭痛と気分の悪さが襲ってきた。
  振り向かずに、聡子は単調な声で答えた。
「合わなかったの」
「何が! 性格か?」
「体!」
  はっきり言って、不思議に胸のつかえが降りた。 聡子は背筋を伸ばして、さっさと歩き出した。 亮は復讐して、憂さ晴らしができたはずだ。 もう負い目を感じる必要はないのだ。


  聡子はぎりぎりまで働いて、予定日の2日前にようやく産休に入った。 思ったとおり心細かった。 5日すぎても陣痛が起きなかったので、不安になった。
  6日目に、それらしい腹痛が聡子を襲った。 想像したより早く間隔が狭まって、聡子は這うようにしてタクシーに乗り、予約していた医院に行った。
  10時間の苦労の末、ようやく産み落とした子は、3千グラム以上ある男の子だった。 
  《珠紀》じゃなく《光毅》だった。 自分でたしかに生んだはずなのに、思ったより実感がない。 それでも充足した気持ちで、聡子は痛みでぼんやりした目を閉じた。
  最初の授乳が終わったとき、ナースが花束を持ってきた。 若い男性が受付に置いていったと聞いて、聡子は会社の誰かだろうと思った。 連絡上の都合から、工場には病院の住所と電話番号を知らせてあったからだ。


 一週間が経った。 無事に退院した聡子は、光毅を抱いて役所に出向き、出生届を提出した。 誰も代わりにやってくれる人がないので、すべて自力でやらなければならない。 戸籍には長男ではなく、ただの《子》と記載されてしまうのが、光毅に申し訳ない気がした。
「償いに、できるだけ派手で未来の開ける名前にしたからね」
  そう子供にささやきかけながら、聡子はバスに乗り、アパートに帰った。
  階段を上がろうとしたとき、下から男が現れた。 もう辺りは暗闇に閉ざされ、はっきりと見分けがつかなかったが、体格から聡子にはわかった。 亮だった。
  まるで何も目に入らなかったように、聡子は階段を上りはじめた。 亮はしばらく動かなかったが、聡子が部屋の鍵を開けようとしたとき、目がさめたように階段を駆け上がった。 そして、聡子がドアを開けた瞬間、押し込んで自分も入った。
 ドアが閉まった。 電気をつけると、聡子は光る眼で亮を見上げた。
「どういうつもり?」
  亮は赤ん坊をまず眺め、それから聡子に視線を移した。
「子供は放っとけない」
「あなたに何ができるの」
  聡子の声は氷のように冷たかった。
「法律上私一人の子よ。 あなたには何の権利も義務もないの」
  玄関口に立っている亮にそれ以上かまわずに、聡子は部屋に上がり、さっきから気になっていたおむつの取替えを始めた。 その始末がすむと、今度はベビーベッドの準備だ。 光毅を寝かせて小さな布団をかけてやり、ようやく自分の番になった。
  聡子はまっすぐ亮に目をやって言い渡した。
「着替えたいの。 出て行って」
  亮は立ったままだった。 たまらなくなって、聡子は玄関に降りると、ドアを開いて彼を押し出そうとした。
  そのとたん、腕をつかまれた。 あまりにも強い力だ。 足を蹴ろうと思ったが、なぜか実行できない。 聡子は観念して下を向いた。
「兄さんが死んで、家の中が真っ暗になった。 ずっと憎んでいた。 忘れられなかったから、偶然あの工場に勤めてることを知ったとき、計画を立てた。 結婚式の当日に姿を消して、恥をかかせるつもりだった」
「もういいわよ。 説明してくれなくても」
  小声で言うと、聡子は亮を押し離そうとした。 亮の顔がゆがんだ。
「でもほんとはうまく行くとは思ってなかったんだ。 気位の高い女だろうから、俺のほうが相手にされないと思っていた。 まさか、もぐらなんて呼ばれるくらい独りぼっちだなんて……」
  聡子の目の前が真っ赤になった。 この男は二重に侮辱するために来たのだ。 やみくもに亮を突き放すと、聡子は割れた声で叫んだ。
「そうよ! 寂しかったから、あんたなんかに引っかかったのよ! 浩が自殺してからずっと苦しくて、誰とも付き合わずに来たし、服も靴もほとんど買わなかった。 でももう償いはすんだわ。 そうでしょう? だからこれからは派手な商売に移って、お金を儲けて、この子に楽させてやるの。 まだ間に合うものね」
  もう亮にはかまわずに、聡子は粗末なロッカーから普段着を出して、さっさと着替えはじめた。
  亮はぼんやりと彼女を眼で追っていた。 夕食を作るためにエプロンをつけようとして、聡子は気づいた。 冷蔵庫を空にして出た。 買い置きのインスタント食品もない。 食べるものも料理する材料もないではないか。
  仕方なく、聡子は財布を出し、光毅を抱き上げて買い物に出ようとした。 そのとき、亮がつぶやいた。
「俺のしたことは何だったんだろう……」
  ドアをあけると、聡子は早口で言った。
「鍵をかけるから、そこにいると閉めこんじゃうわよ」
  突然亮は身をひるがえして光毅を抱き取った。 ぎょっとした聡子は必死で手を伸ばして取り返そうとした。
「やめて! 返してよ!」
「子供は見てるから、買い物に行っておいでよ」
「何ばかなこと言ってるの!」
  思わず声が大きくなった。
「勝手な気まぐれで言い出さないで。 これから長いこと一人で育てなきゃいけないんだから、かきまわさないで!」
  光毅をしっかり抱いて、亮は言った。
「この子のために、二人で暮らさないか?」
「今度は何たくらんでるの!」
  聡子の声は、ナイフのように鋭かった。
「この子に何かしたら、誘拐罪で訴えるわよ。 さあ、返して」
「たくらんでるんじゃない!」
  亮の声がかすれた。
「ずっと……ずっと会いたかったんだ」
「誰に! この子に?」
「この子と、君に」
  かっとなって言い返そうとして、不意に聡子の眼前に、去年の夏の光景が一杯に広がった。 垂れ落ちそうなコーンを片手に渡った踏み切り、手をつないで歩いた裏道、初めてのキス…… 幸福感とうら哀しさが一体になった、不思議な夏。
「お芝居は楽しかった?」
  静かに聡子は尋ねた。 亮は目を閉じた。
「みじめだった」
「そう……」
「復讐のエネルギーなんて続かないんだ。 相手が悪党ならともかく」
「ちゃんとやったじゃない」
「ちがうんだよ……」
  声がいっそうしわがれて、聞き取りにくく変わった。
「途中で間違ってることに気づいた。 でも偽名だし、仕事も他に持ってるし、もうどうにもならなくて…… 姿を消すしかなかった。 写真を送ったのは、君が住所を見て問いただしに来ないかとも思ったからだ。 来てくれればいいと思った。 でも君は何の連絡もしてこなかった。 子供のことも黙っていた……」
「連絡なんかするわけないじゃない。 もっとつらい目に遭うだけなのに」
「だから来たんだ。 やり直したいんだ。 偽名のままで式を挙げて、あのマンションで二人で暮らそうと思ったが、勇気がなくてできなかった。 その償いを……」
「私はもぐらよ」
  聡子は低く遮った。
「あなたが何を考えてるのか知らないけど、全然魅力のない年上の女に計画的に近づいただけなのよ。 子供への義務感なら余計なことだわ。 私が勝手に産んだんだから。 この世に片親の子供はいくらでもいるわ」
「聡子!」
  悲痛な声が響いた。
「もぐらに戻るなよ! 初めて君が笑ったとき、うれしかった。 だんだん明るくなってく君を見るのが楽しみだった。 人を幸せにするのがあんなにいいものだなんて、今まで知らなかったんだ。
  不幸にするつもりだった自分が小さく見えた。 ずっと後悔していたんだ。 君に会ったことをじゃない。 会えてよかったと思ってる。 これからもそう思う」
  聡子は息を深く吸い込んだ。
「私もそう思ってる。 初めて人を好きになって、半年幸せだった。 それでよかったと、今あなたの話を聞いて、思えるようになった」
  光毅をしっかり抱いたまま、亮はつぶやくように言った。
「一緒に買い物に行くよ。 これからも来る。 君が心を開くまで、何度でも」


――終――











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