表紙

もぐら U-1


 聡子〔さとこ〕がふと気付いて腕時計を見ると、もう二時半を回っていた。
 そろそろ部屋に帰って、通勤の支度をしなければならない。 だが、膝に乗せた小さな体はすやすやと寝入っていて、あまりにも気持ちよさそうで、動かすのがはばかられた。 愛おしい眼差しでじっと見つめていると、木漏れ日がクリーム色のベビーケットに白い斑点を作って、わずかに揺れ動いた。
 久しぶりの晴れだった。 微風が頬に快い。 キリンのすべり台やクマのブランコに囲まれて坐っていた二人の傍を、シニアのおばさんがカートを押して通りかかった。
 目が合ったとき、おばさんは人懐っこく微笑した。
「めんこいのえ」
 確かにそう聞こえた。 親しみの持てる口ぶりで、人見知りな聡子でも、思わず笑顔を返したくなった。
 すると、おばさんはカートにかぶさるようにしてゆらゆらと近づいてきて、赤ん坊を覗き込んだ。
「器量よしやの。 お母さんによう似て」
 長話になるか、と、聡子は覚悟した。 だが、おばさんは彼女なりに急いでいるらしく、またカートの向きを変えて、あっさり遠ざかっていった。

 結局、自分からは一言も話せなかったけれど、光毅〔こうき〕を抱いてアパートへ帰る道すがら、聡子の心は明るくなっていた。
 この付近には、三つ公園がある。 そのうち、春坂公園は広くて手入れがよく、お母さんたちのたまり場になっているが、聡子はほとんど行かなかった。
 今坐っていたのは、仲町こども公園だ。 名前と異なり、子供は滅多に来ない。 遊具が古いし、小さな林の中に埋もれるようにあって、物騒だからと親に遊ばないように言われるらしい。
 だから、聡子にとっては穴場だった。 最初は春坂へ行って、何人かの母親と話を交わしたが、親しくなるとプライバシーに踏み込んだ質問が多くなり、自然と足が遠のいた。
 近所の母親たちに、光毅の生まれを根掘り葉掘り聞かれたくなかった

「器量よしだって。 お母さんに似て、だってさ」
 うきうきと、聡子は腕の中の我が子に話しかけた。 光毅が生まれて以来、普段はコンタクトレンズにしている。 昼間出ることが多くなったので、日焼け止めをかねて薄化粧もしている。 仕事場に行くときだけ黒縁眼鏡という、普通とは逆コースを取っていた。


 その日の夜中、零時を少し回った頃、聡子は急ぎ足で和菓子屋の角を曲がった。
 路地の突き当たりに、まだ明かりのついた二階家がある。 『デイジーハウス・こどもの家』だ。 聡子はこの幼児施設に、息子の光毅を預けていた。
 間口を広く取った玄関から入っていくと、大きなエプロンをした顔見知りの保母が、ベビーベッドからよっこらしょと、ブルーのプレオールを着た赤ん坊を抱き上げた。
「ほうら、ママしゃんのお迎えですよー。 今日もご機嫌よくしてたね。 光毅〔こうき〕ちゃん、ほんとに手がかからなくて、いい子ですよー」
 ほんとにそうなのかわからないが、熱を出したりむずかったりしないのは確からしい。 聡子はいつもながらほっとして、礼を言いながら、ずっしりと重い我が子を受け取った。

 一人でやる子育ては、想像以上に大変だった。 勤務先が弁当工場なので、仕事が夕方の四時からと遅い。 前は朝の九時まで寝ていられたが、赤ん坊がいるとそうもいかなかった。
 幸い、乳はよく出た。 授乳の半分をミルクにするのは惜しいほどだった。 仕事を休んでずっと家にいられたら、と夢見ることもあったが、それでは生活がやっていけない。

 ベビースリングに小さなお尻を載せて、小声で話しかけながらアパートに戻ってくると、階段から人が立ち上がるのが見えた。
 聡子は驚いて、目を凝らした。 今日は木曜日、いや、もう真夜中過ぎだから金曜日の夜だ。 梱包用品の物流会社の社員をしている亮〔りょう〕が、平日の夜中に来ることはまずなかった。
「どうしたの?」
 押えた声で聡子が尋ねると、亮は深刻な表情で囁き返した。
「お節介がいてさ、君と光毅のことを両親に告げ口したんだ」
 聡子の背中が強ばった。

「いとこの女なんだけど、俺の部屋にあった君達の写真を携帯で写して、飯能〔はんのう〕に送ったらしい。 ほんと嫌な性格してるよ」
「私達の写真って、いつ撮ったの?」
 亮はあらぬ方を向いた。
「公園にいるとき、遠くから二、三枚」
「それを部屋に飾ってたの?」
 非難する口調になったが、やむをえなかった。
 亮は不意に、きらきらした目を聡子に据えた。
「だって俺の家族だ。 いつも傍に置いときたいじゃないか」
 無意識に声が高くなっていたのだろう。 アパート一階の窓が開いて、聞こえよがしの咳払いが響いた。

 仕方なく、聡子は亮をうながして外階段を上った。 あまり部屋には入れたくないのだが、今夜は特別だった。
 ドアを閉めると、すぐに亮は光毅を受け取って上手に抱いた。 週末は常に来て子守りをしているので、慣れたものだった。
 手早く和室で着替えをして戻ってくると、光毅は亮の腕の中で、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「もう寝かせるか?」
「そうね、おっぱいは起きてからでいいわね」
 普通の若夫婦のような会話が自然に成り立つ。 だが、聡子は本当に亮を許したわけではなかった。

 確かに聡子は、亮の兄を失恋させ、自殺に追いやった。 しかし、決してわざとしたことではない。 交際の途中からすっかり気が進まなくなり、デートの日には前日から胃が痛むようになって、結婚は無理だと気付いたのだ。
 人は間違いをする。 聡子は何度も浩〔ひろし〕に詫びた。 だが彼は受け付けなかった。 婚約は守るべきだの一点張りだった。
 だから、逃げるしかなくなってしまった。
 嫌いになったのなら、まだよかった。 本当にお互いを嫌になるまで徹底的に喧嘩して、別れることができたろう。 友情と愛の間には、細いがとてつもなく深い溝があった。
 少なくとも、聡子の場合はそうだった。

 浜中亮〔はまなか りょう〕は、自殺した宏の弟だ。 それを隠し、名前を替えて聡子に近づいた。 そして、まんまと彼女の心を手に入れ、結婚寸前で投げ捨てた。
 本人は、真剣に好きになってしまい、耐えられなくなって逃げ出したと懺悔〔ざんげ〕しているが、聡子には信じきれない。 いったん捨てたものを家族と呼ばれても、素直にそうですかとは言えなかった。

「なんか飲む?」
「あ、俺買ってきた。 この時間にコーヒーじゃ眠れなくなるから、地味だけど」
 ホットウーロン茶の缶を、亮はバッグから出してみせた。
「さっきまで手を温めていたせいで、もう冷えちゃってる」
「じゃ、今ポットでお湯わかすから。 ちょっと待って」
「いいよ、俺やる」
 ちょっとぐずって目覚めた光毅の世話をしている聡子を見ながら、亮はすぐに立ってコンセントを差し込んだ。

 結局、二人は紅茶を飲むことにした。 授乳の後、光毅はまたすぐに寝てくれた。
「神経質じゃないよな、光毅は」
「うん、丈夫だし、落ち着いてるから助かる」
「電話でさ、母さんが、写真見たらかわいい子だねって」
 どう反応したらいいかわからなくて、聡子は下を向いた。
 亮は、少し早口になった。
「やっぱりさ、孫に会いたいんだと思う。 初孫だし。 だから、今日は頼みに来たんだ」
 何を? とは、聞かなくてもわかっている気がした。


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