表紙

もぐら U-2


 亮はそこまで言って、不意に伸ばしていた脚を曲げて正座した。
 真剣な目は、頬に痛かった。 聡子は助けを求めるように、レンタルのベビーベッドに顔を向けたが、光毅は熟睡していて、びくとも動かなかった。
「籍、入れよう。 光毅だって少しでも早く認知したほうがいいと思う」
「ちょっと待って」
「ずっと待ってたじゃないか! 待ちすぎたくらいだ!」
 だんだん声が激してきた。 亮はこれまでになく必死だ。 怖れさえ感じる迫力だった。
 真夜中だし、疲れもあるし、頭が固まって答えが出てこなかった。
「一度投げ捨てたものを、また拾うのは……」
「投げ捨ててないよ! 消えてた間、何度も見に来たよ。 話しかける勇気がなかっただけで、俺何度も」
 手が伸びて、聡子の指をガシッと掴んだ。 熱い肌だった。 乾いていて、せっかちで、力強かった。
 このまま成り行きに身を任せ、何もかも忘れることができたら、と、聡子は思った。 もし、そんな勇気が自分にあったなら。
 ほとんど目を閉じかけた。 だが、いろんな連想が朽ち木のようにどっと倒れかかってきて、すぐに心が打ちひしがれた。 自分には家族がいないからいいけれど、彼の両親は、親戚は、わだかまりを忘れることができるだろうか。 笑顔で付き合える日なんて、いつ来るのか……!
 聡子は、そっと指を外した。 そして、力ない声で言った。
「公園で写真を撮ったってことは、眼鏡をかけてない顔のときね。 私の顔、お母様はすぐ気付いたはずよ。 二度お会いしただけだけど、忘れっこない」
「うん、覚えてた。 だから、よけい踏ん切りがついたんだよ!」
 亮は言葉を弾ませた。
「俺さ、飯能の実家へ飛んでって、長いこと話したんだ。 親父は何も言わなかった。 おふくろは、初めは凍ったみたいな顔して全然返事してくれなかったが、そのうち、ぽつぽつと子供のことなんか訊いてきてさ」
「私は!」
 たまらなくなって、聡子は息せききってなおも話そうとする亮を遮った。
「子供をだしにしてお宅に入り込むつもりなんかない!」
「誰がそんなこと言ったよ!」
 ピンと空気が張り詰めた。 敏感に感じたのだろう。 珍しく光毅が弱い泣き声を上げた。
 中座する口実ができて、聡子はほっとした。 立ち上がって光毅を抱き取ったとたん、涙が出てきそうになった。 亮も気まずそうに立ち上がり、緊張した顔のままで玄関に向かった。
 靴をはく前に、彼は強ばった表情のまま、赤ん坊を横抱きにした聡子を眺めた。
「夜中はカッカしやすいから、また日を改めて来る。 喧嘩して、取り返しのつかないことになったら嫌だ」
 ごそごそと靴べらを元の位置に戻していて、また顔が上がった。
「そうそう、さっき光毅と帰ってくるところ見て思ったんだけど、やっぱりヤバイよ、夜遅く赤ん坊と二人で歩いて帰るのは」
「じゃ、バスに乗る」
「いや、そういう問題じゃなくて。 バス降りてからまた歩くだろう?」
 そう言われたって、朝まで預けておくわけにはいかない。 聡子は黙って光毅をあやし続けた。
「それじゃ、また来るから」
 返事を待たず、亮は静かに玄関のドアを閉めた。 革靴が階段を下りていく音に、聡子は侘しい気持ちで耳を澄ませていた。


◆◇◆


 別れ際に言い残されたから、余計耳についたのかもしれない。 翌晩、いつも通りデイジー・ハウスで光毅を受け取って戻る道すがら、聡子は周りが気になって仕方がなかった。
 ほぼ毎晩通るジョギングのおじさんは、顔を覚えているから平気だ。 いつもと同じに、建具屋の前でいったん足を止めて、首に下げたスポーツタオルで顔を拭っていた。
 その横を歩きすぎるとき、むしろ聡子はほっとした、 この道はまっすぐだから、怪しい人影が見えたらジョギングおじさんに助けを求めればいい。 相当遠くまで姿が見えるはずだ。
 生後三ヵ月半を過ぎた光毅は、ずいぶん重くなっていた。 買い物へ行くときにはベビーカーに乗せるが、夜は抱いて五百メートルほど歩くことになる。 スリングに包んでいても、足腰が疲れた。
「羽があるといいねえ、こんなとき。 燕の親子みたいに、すーいすいっておうちまで飛んで帰れたらねえ」
 景気付けに『翼を下さい』を小声で口ずさみながら、聡子は長い一本道を抜け、アパートへ曲がる小道に入ろうとした。
 とたんに、横にある立て看板の裏から男がよろめき出てきて、聡子めがけて突んのめった。
 声にならない悲鳴をあげて、聡子は後ずさった。 やっぱり! という恐怖が一挙に頭を占領し、ローヒールの踵を回転させて泳ぐように駆け出した。
「あ、ちょっと……」
 弱々しい声が追いかけてきた。 必死で走るのに、声は遠ざかっていかない。 ほぼ同じ距離を保ってついてくる。 聡子は足をもつれさせて、まだ灯りのついている『かぐら』という居酒屋に飛び込んだ。
 店の中では、二人の男性客が仲よく酒を酌み交わしていた。 茶布巾を頭に被った主人が、突き出しの小皿を並べたところで手を止め、顔を上げた。
「いらっしゃい」
「あの……」
 息が切れてすぐに助けを求められないでいるうちに、よろめく足音が表から入ってきて、カウンターに寄りかかった。
 かすれ切った声が言った。
「すい……ません、腹が猛烈に痛くて……救急車呼んで……」

 客の一人が親切で、すぐ携帯で119番してくれた。 椅子に座ったら? いや畳に寝たほうが、と男たちが手助けするのを、聡子はぼんやりと見守った。
 やがて、すごく恥ずかしくなった。 なんか自意識過剰だったな、と反省しつつ、そっと暖簾をくぐって出ようとしたところを、居酒屋の主人に呼び止められてしまった。
「あんた奥さん? 大変だねえ。 外は冷えてきたから、ここに入ってたほうがいいよ。 車が来たらサイレンでわかるから。 あ、それより俺が誘導してきてやるよ」
「ええ、でもあの……」
「オヤジさん、じゃこれ」
「はい、毎度有難うございます」
 男性客たちは出ていき、主人は表を見に行ってしまった。 聡子は帰るに帰れなくなり、端の椅子に座って、苦しんでいる男をどうしたらいいかわからないまま、そっと横目で眺めていた。


 結局、救急車が来て病人を運び入れるまで二十分以上かかった。 すべて終了したとき、店の丸い壁掛け時計は一時近くを指していた。
 「一緒に乗っていかないの?」と訊かれて、ようやく聡子はただの通りすがりだと説明することができ、居酒屋の主人は噴き出してしまった。 
「いやあ、人がいいねえ。 気に入ったよ。 今度店に来てくれたら、ビールぐらいおごっちゃうよ」
「あ……ありがとう」
 聡子も何となく笑顔になった。

 もう看板の時刻を過ぎていた。 主人は暖簾を片づけてから、聡子をアパートまで送ってくれることになった。
「いやあ、さっきから道が騒がしいんだよ。 俺が救急車待ってる間に、消防車が三台も通って。 今夜はいろいろあるなってさ、何度も振り向いちまったよ」
 聡子に話しながら、のんびり下駄の音をさせて道をもう一本曲がったとき、主人の眼が丸くなった。
「おい、火事はあそこだよ」
 いがらっぽい煙が吹きつけてきた。 道の突き当たりを見て、聡子は信じられない気持ちで、茫然と口をあけた。

 煙をもうもうと吐き出しているのは、聡子の住む『テラスハウス森川』だったのだ。


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