表紙

もぐら V-1


 高塚聡子〔たかつか さとこ〕が火事で焼け出され、息子の光毅〔こうき〕と共に浜中亮〔はまなか りょう〕の部屋へ緊急避難してから、半月が過ぎた。


 七月も末の金曜日、亮が珍しく六時前に帰宅して、そろそろ出勤する支度をしていた聡子を驚かせた。
「あっ、お帰り。 早いねー」
「了解、取ったよ」
 いきなり前置きなしに、亮はビジネスバッグを肩から外し、テーブルに載せながら言った。
 それからすぐ、彼はベビーベッドに近づいて、ぐっすり寝入っている我が子を覗き込んだ。
「まだか、これでもか!って、ちびの写メを送りつけたんだ。 やっぱり初孫の魅力には逆らえなかったらしい」
 亮の話の筋道がわかって、聡子の背中が衝撃に強ばった。
「あの……ご両親……?」
「そう」
 しっかりとした強い調子で、亮は認めた。
「入籍はしていい。 ただし、派手な結婚式は挙げるなって」
「それは……」
 もちろん、そんなことはできないし、する気持ちもない、と言おうとしたが、声が続かなかった。 目の前が、土砂降りの日のフロントガラスみたいになって、聡子はよろめいた。
 亮が、大股で部屋を横切ってきた。 そして、上着のポケットからハンカチを出すと、聡子の目を優しく拭った。
 後から後から溢れる涙の中で、聡子は泣き笑いした。
「やだー、それトイレで手を拭いたんでしょう?」
「拭かないよ。 ちゃんとペーパータオルあるんだから」
「ごめん、冗談」
 背の高い亮にぶつかるように、聡子は力を込めて抱きついた。 息が詰まるような喜びに、いろんな感情が交じり合って、自分では処理できなかった。
「いいのかなぁ、私幸せになって」
 亮もがっしりと聡子を受け止め、グッと持ち上げて、鼻の頭にキスした。
「顔が塩辛い」
「だって涙止まらないんだもの」
「俺さ、思ったんだ。 二人が幸せになって、いい家庭を築いて、光毅を素直ないい子に育てられたら、そこで親たちも本当にわかってくれるんじゃないか? 目の前で証明してみせようぜ」
「できたら」
「できる。 こうやって一緒に暮らして、まだ半月だけど、兄貴がどうしてあんなに聡ちゃんに粘着したか、わかってきた」
 どういうこと?
 聡子はようやく収まってきた涙の間から、いぶかしげに恋人を見上げた。
「居心地がいいんだよ、傍にいると。 なんかホワッとしてるというか。
 聡ちゃんて、落ち込んでた間も弁当会社でいじめられなかっただろう?」
 聡子はたじろいだ。 そう言えば、そうかもしれない。 敬遠されてはいたが、誰も仲間外れにはしなかった。
「社長にも目をかけられてたらしいし、なんか庇いたくなるタイプなんだよな」
「えー? そう?」
 声がかすれた。 亮はもう一度、今度は額に唇をつけてから、聡子を床に下ろした。
「二人なら、背負う荷物は半分になる。 そう思ってがんばろう。 な?」


 翌日の土曜日、聡子は有給を取って、浜中亮と結婚届を提出しに行った。
 何度も確かめたから、記入漏れはなく、すぐ受け付けてもらえた。 あっけないほどだった。


 ほっとして帰宅した後は、デリバリーの寿司屋に特上詰め合わせの『牡丹』を頼み、二人だけで、いや、二人の間のベビーマットで陽気に手足をバタバタさせている光毅〔こうき〕と三人で、ささやかな祝宴を張った。
 二人前では少なそうだと、亮〔りょう〕は三人前を取り寄せていた。 だから握りも巻き物もすべて奇数で、余りが出る。 亮が嫌いな甘い玉子は聡子の口に合い、聡子〔さとこ〕の苦手なコハダは亮が喜んで平らげた。 そして、二人とも好物の赤身や貝は、半端が出るごとにジャンケンした。
 ほんとは、残り全部を亮に譲ってもよかった。
「私これだけでお腹一杯だから、みんな食べて」
「遠慮しちゃ駄目だよー。 わがままな亭主ができちゃうぞ」
「そうなるの?」
「うん、たぶん。 最初が肝心なんだってよ。 ビシッと行かないと」
「亮ちゃんに言われると変な気分」
 聡子はクスクス笑い、ギンギンに冷えたビールに手を伸ばした。 冷酒とちゃんぽんに飲んでいて、何だか酔った気がする。 このまま転寝〔うたたね〕してしまっても、亮がいるから大丈夫だ。 そう思うと、今までにない安心感で胸がうずいた。
「甘やかさないよー」
「そう、その通り」
 フローリングの床にあぐらをかいて、亮は大げさに頭をこくこくさせた。 その傍に這い寄っていって、聡子は彼のがっちりした膝に頭を載せた。
「甘えちゃう。 こっちが」
「そう来たか」
「先にやったもん勝ち」
「よーし、ドーンと来なさい。 俺の膝は頑丈だ」
「よろしく、お願いします」
 顔を横にして、そっと囁いた言葉は、あまりにも小さかったが、亮の耳にはしっかりと聞こえた。
 聡子の頬に手を置いて、亮はしんみりと答えた。
「正直、責任感じる。 ずしりと重い。 入社して少し経ったときも、こんな気分だったな。 俺こんなんで、果たして大丈夫かな、みたいな」
 膝を軽く揺すると、亮は言い添えた。
「でもまあ、何とかなった。 やれば形になってくもんだ。 大して好きじゃない仕事でもそうなんだから、まして聡ちゃんが一緒なら」
 そのままずるずると体を延ばして、亮は聡子を腕に抱いた。
「酒くさいけど、キスしていいか?」
「いい。 私も同じだもの」
 二人がチュッと唇を合わせたとき、間に挟まれた光毅がア、アー、と奇声を発して騒いだ。


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