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  待ち焦がれて 8


 2人が館に入るのを見届けて、ジュリアはそっと馬屋を忍び出ると、煌々と明かりが灯った大広間の外れにある、小さな開き窓に近寄った。
  爪先立って、太い窓枠の間から中を覗きこもうとした、まさにその瞬間、耳のすぐ後ろで声が響いた。
「何こそこそしてるんだ」
  あやうく心臓が破裂するところだった。 両手で胸を押さえて飛びのくと、背後には思ったとおり、渋い茶色と象牙色のレースで着飾った、美々しいパトリックが立っていた。
「一人では入りにくいのか?」
「ちがいます!」
  妙なところを見つけられて吹き飛んでしまった落ち着きを、何とかかき集めて、ジュリアは思い切り冷たい顔を作った。
「あなたこそ、こんなところで何を?」
「馬を下りたら君がうろうろと歩いていくのが見えたから、どうしたのかと思って」
  こそこそに、うろうろ! 好かれたいならまず言葉遣いから勉強したらどうよ! と思いながら、ジュリアは急いで玄関に向かった。
  パトリックは並んでついてきた。 何とか同伴者と見られないようにしたくて、ジュリアはドアをあけたとたんに目に入ったエックヴィル夫人のところへ飛んでいった。
「ごきげんよう、奥様。 だいぶ冷えてきましたね」
「ええ、ほんとに」
  ほっそりしていて寒がりのエックヴィル夫人は心から同意した。
「夜はもう皮の手袋が要るかもしれませんね。 こんなレースでは暖かくなくて……」
  誰かが近寄ってくる気配に、ジュリアは何気なく顔を上げた。 そのとたん、指でやみくもに椅子の背もたれを探り、必死でしがみついた。
  それは、ディックだった。 地味な黒ずくめの服装で、襟のレースも最小限にしている。 きりっと締まった口元までしかジュリアの視線は上がらず、とても眼を見るどころではなかったので、どんな表情をしているかはわからなかった。
  ディックの唇が開くのが見えた。 だが、声を発する前にすっとパトリックが進み出て、2人の間に入った。 そして、足を引いて一礼すると、うやうやしい口調で言った。
「初めまして。 パトリック・ウッドワードと申します。 こちらはわたしのいいなずけ、ジュリア・ウォルターズ嬢です」
  ジュリアは息を止めてパトリックを見つめた。 いいなずけ!? 誰が、いつ結婚を承知したって?
  1呼吸おいて、ディックが静かに答えるのが聞こえた。
「それはおめでとう。 果報なことだな」
  その言葉で我に返ったジュリアは、ちがいます! と叫ぼうとした。 ところが、寸前に思い切り手を引っ張られて、ドンとパトリックに衝突してしまった。
「何するのバカ!」
「バカは君だろう。 挨拶も満足にできないのか。 この人はデルマイア公だぞ!」
  小声で罵り合っていたジュリアは、パトリックの最後の一言で、頭がぼっとなってしまった。
  デルマイア公爵…… 領主代理の、デルマイア公リチャード・サクセター……! 確かにリチャードはリチャードだったんだ、とわけのわからないことを考えながら、ジュリアはくたくたと床に崩れおれ、深々とお辞儀をした。
 
  宴会は、ジュリアにとって悪夢と化した。 人いきれのすごい会場は空気が流れていかずに頭痛がしてきたし、なぜかパトリックはそばを離れずにうるさく世話を焼くし、酒は発酵しすぎてまずく、おまけに席がデルマイア公リチャードの隣だった!
  とりのフリカッセにナイフを入れながら、ジュリアは前後に体が揺れ出すのを感じた。 なんだか気が遠くなってしまいそうだ。 やっぱり自分には冒険なんて無理だった、身のほど知らずなことをするから天罰が……
  そこでジュリアは気がついた。 別に罰は当たっていない。 ディックだと判明したデルマイア公は、毛筋ひとつ動かさずにチシャを食べていた。  女主人のケッセル夫人が気を遣っていろいろ話しかける言葉に、沈着な様子で受け答えしている。
 それはそうだ。 女王の腹心でコーンウォール一帯の治安と徴税を任されている公爵が、お忍びの一人旅で地元の娘と遊び歩いたなどと、自分から口外するわけがない。
  いくらか胸の動悸が納まってきた。 だが今度は物悲しさがつのってきて、ジュリアはできるだけ皿に近く顔を伏せた。
 
  リチャード卿ウィリアム・ヘンリー・サクセター。 彼が現在の地位についたのは9年前だった。 そのときまでどこにいたかというと、なんと修道院に入っていた。 6歳違いの兄ジョサイアは妾腹の子で、リチャードの方が血統上は正統な跡継ぎだったが、家督は兄に譲られて、弟も権利を主張しなかった。 猛者と言われた兄と骨肉の争いをしたくなかったのだろう。
  しかし、戦争好きなジョサイアは、25歳で戦場に散った。 そして弱冠19歳、世間知らずの若者が修道院から呼び戻され、頂点に立った……
  どうやって帝王学を勉強したか知らないが、リチャード卿は領主の座に座ったとたんに思わぬ力量を示した。 勝ち目のない戦いからうまく撤退し、わずかながらフランス国境に小さな港付きの土地までせしめた。
  しかもまだ先がある。 その土地を、リチャードは台頭しかかっているフランドル国境の商人に交易地として貸し、定期的に入金する地代を、戦費で懐が苦しくなった貴族に分配した。 豪放磊落〔ごうほうらいらく〕な兄と比べれば地味だが、人心を掴む腕はなかなかのものだった。
  しかも、現在28歳の若き領主には、弱点があまり見当たらなかった。 まず、無駄遣いをしない。 これまでに買ったのは書物と数枚の絵ぐらいで、屋敷は兄のを修繕してそのまま使っているし、服装はきちんとしていればいいだけで、仕立て屋に注文はまったくつけないという。 もと僧侶だからか、やたらに黒が好きだという噂だった。
 
  ついでに言うと、彼には女性関係の噂はほとんどなかった。 降るほどある政略的縁談にも耳を貸さず、ひたすら政務に没頭しているらしい――と、これまでは言われていた。
 
  思い出すと、火が出るほど恥ずかしい。 孤児だなんて言ってしまって、さっき顔を見た瞬間彼はどう思っただろうと、考えるだけて自分に嫌気がさした。 ジュリアは皿に載った料理を半分も食べられず、ずっと下を向きっぱなしで、話に加わるどころではなかった。


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