表紙へ
待ち焦がれて 3
 

 男は、はっとした様子だったが、すぐに抱き返してくれた。 ジュリアは、彼の胸を額で押すようにして、泣きじゃくった。 顔が腫れて、眼がふさがりそうになったって、かまいはしない。 自殺しようとして助けられ、裸まで見られて、もう隠すものなど何もなかった。
  やがて、ジュリアが心の片隅で期待していたことが起こった。 男はジュリアにそっと頬ずりし、耳に、それからこめかみに、唇を静かにすべらせていった。
  ジュリアは彼に抱きついたままだった。 胸の内側がきゅっと絞れるような、不思議な気分だ。 これから何が起こるのか、頭は充分知っていても体は無知なままだった。 『いい子』はみだりに男に身を任せたりしない。
   だが…ジュリアは彼を知りたかった。 かすかに馬と皮の匂いのする、彼のすべてを。


 1時間もすると、服はすっかり乾いた。 男に微笑みを見せながら、ジュリアは素早く服をまとった。
  淡い夕暮れの中で、体中が熱い。 しかし後悔はかけらもなかった。 彼は見かけ通りおだやかで、ジュリアが初めてと知ると優しく導いてくれた。 道に外れたことかもしれないけれど、私は今やっと大人になったんだ、とジュリアは誇らしくさえ感じていた。
  男も半身を起こしたが、立ち上がろうとはしなかった。 胸につかえがある、といった様子で黙っている。 ジュリアが服を着終わると、ようやく顔を上げた。 そして、低く言った。
「家まで送ろう」
  ジュリアはぎくっとした。 とっさに嘘がすらすらと口から出た。
「家はありません。 つまり、孤児で……お情けで置いてもらっていた家から追い出されて」
  我ながらあきれた作り話だった。 男が信じたかどうかはわからないが、なぜかほっとした雰囲気が伝わってきた。
  驚くほど身軽にさっと立ち上がると、男は明るい口調で言った。
「それならあわてて帰る必要はないな。 祭りに行こう。 ふたりで楽しもう」
  良心の声は吹き飛んでしまった。 楽しむ――なんていい響きだろう! 生まれてからただの一度も羽目を外したことのないジュリアは、その一言で遊び心に火がついた。 いいじゃないか、と、頭の隅に新しく生まれた小悪魔が囁いた。 どうせ後は真っ暗な人生が待っているんだ。 この人と一日ぐらい遊びほうけたって! 


 ストレッチフォードの町には顔見知りが結構いる。 まして祭りの日は近在から人が集まる。 ジュリアはマントの頭巾を深く引きおろし、男の大きな背中に隠れるようにして歩いた。
  町はごった返していた。 売店がところ狭しと並び、見世物小屋が林立している。 ところどころにある小さな広場で、火吹き男や竹馬を足にはいた巨大な仮装男が、客集めに実演を繰り広げていた。
  男の手をしっかり握ってはぐれないようにしながら、ジュリアは夢の中をただよっているような気分になり始めていた。 勝手に愛人を作って遊びまわるなんて、3日前なら考えもしなかった。 他人のそういう噂を聞いただけで眉をひそめていたのに、いざ自分がやり出すと……楽しい!
  やみくもに酔っ払いの乗った馬車が暴走してきたので、男が素早くジュリアを庇って屋台の横に避難した。 頼もしい彼の腕に守られながら、ジュリアは顔を上向けて、そっと尋ねた。
「お名前は?」
  男ははっとした様子で固まり、それから笑い出した。
「そうだ! 何てことだ! わたしはリチャード。 ディックと呼んでくれ」
  ジュリアは微笑した。
「トム、ディック、それにハリー」
  どこにでもある平凡な名前のひとつ。 偽名として名乗るにはぴったりだった。
  男もほほえんだ。
「確かにありきたりな名前だ。 でも本名なんだよ」
  ジュリアは彼を信じた。 信じたかった。
「私も普通の名前。 ジュリーといいます」
「ジュリーか」
  口の中で噛みしめるように繰り返して、ディックと名乗った男は続けた。
「母の名に似ている。 ジュリエットという名前だった」
  夏至。 1年で一番長い日。 太陽はなかなか沈まず、喧騒はいつまでも続いた。
  それでも10時近くなると、さすがに空は真っ暗になった。 揚げ菓子をつまみ、シードルをたらふく飲んだ二人は、すっかりいい気持ちになって、旅館を探しはじめた。
  宿屋はどこも超満員だった。 だがディックは見かけより金回りがいいらしく、『グレイヘアー・イン』という割と清潔な宿の主人と少し小声で話し合うと、すぐ金袋を渡して、2階の一部屋を確保した。
  外はまだまだにぎやかだ。 老いも若きも明け方まで踊り明かす連中が多いのだ。 
  ジュリアはディックに抱えられるようにして、おぼつかない足取りで部屋に上がっていった。

表紙目次前頁次頁
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送