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待ち焦がれて 2


 ジュリアは、意識して土地の言葉を使った。 女が一人で出歩くのは危険なため、召使から粗末な服を借りてきていたから、優雅な言葉は似合わないのだ。
  目深に被った帽子の下から、視線がジュリアの顔にまっすぐ当てられた。 ほとんどまばたきもしない。 魔法にかけられたように、ジュリアは動けなくなった。
  響きの深い声が言った。
「この近くに住む娘さんか?」
「ええ」
「わたしはケンブリッジから来た旅の者だ。 ストレッチフォードの大伽藍を見に来たのだが」
  この人が? なんとなく、ジュリアは違和感を感じた。 聖地巡りをするタイプには見えない。 それに、服装は簡素だが馬が立派すぎる。
「君が溺れているのを見て、この剣でたぐり寄せた。 助かってよかった」
  ジュリアは顔を伏せた。 びしょぬれの彼女をすくい上げ、服を脱がせ、介抱してくれた男。 しかも何ひとつ危害を加えなかった……
「足をすべらせてしまって…… お礼を言います」
  毛布の上からマントを羽織っていると、男はジュリアの横の乾いた地面に腰をおろし、膝を抱くようにして空を見上げた。
「ひどい風だ。 いつもこの辺はこんなふうなのか?」
「今日は特別です。 嵐が近づいてきているのかも」
「夏の嵐か……」
  近くのいじけた木の枝に、自分の服と下着が旗のようになびいているのを見ないようにしながら、ジュリアは早口で言った。
「大聖堂参りなら、いい時期においでになりました。 ご存じのとおり、今日は夏至の祭りなのです。 もちろん、ケンブリッジのような都会からおいでになったなら、田舎の祭りはひなびたものでしょうが、それでもパレードが目抜き通りを練り歩いて、けっこう楽しいですよ」
  男はうなずいた。
「なるほど。 このところ平和が続いているからな。 祭りはさぞ明るいだろう」
「ええ、新しい領主代理様の腕がいいようで」
「腕?」
  ジュリアの言い方が物珍しかったらしく、男は軽く眉を上げて見返した。
「このあたりでは、取引がうまいとそういう言い方をします」
「はあ、腕ね」
  男は微笑した。 すると顔がふっとなごんで、少年ぽく見えた。
  気がつくと、男がじっとジュリアに視線を当てていた。 驚くほど長い睫毛の下で、琥珀色の眼がきらめいている。 とび抜けた美男ではないが、印象深い顔立ちだった。
「ひとつ相談だ。 服が乾いたら、ストレッチフォードの町まで案内してはもらえないか」
  ジュリアは戸惑った。 町はもちろん知っているが、案内となると……
「あちらの方角です。 少し行くと道に出るので、1マイルほど進んでから右に曲がって、馬なら10分ほどです。 迷うことはありません」
  右手で馬の手綱をもてあそびながら、男は少し無言だった。 それから意を決したようにまたジュリアの眼にひたと視線を据えた。
「君をひとりで残すのが不安なのだ。 わたしはわりと遠目がきく。 君が川に身を投げるのを見てしまった」
  少しの時間、風の音だけが響いた。 押し黙ったまま、ジュリアは地面についた手の先にある小さな草むらを見つめていた。
  細い茎の上を赤いテントウ虫が渡っていくのが見える。 かよわいその姿をながめているうちに、突然涙がこみ上げてきた。
  隠そうとしても、手の甲にぽたぽたと熱いしずくがこぼれ落ち、それが小川の流れのようになっては、ごまかしようがない。 とうとうジュリアは泣き崩れてしまった。
  やがて男は、こどもにするように、手を伸ばしてジュリアの頭をやさしく叩いた。 不器用な慰め方がかえってうれしくて、ジュリアは声を出して泣き始めた。
  困った男は、低い声を出してなだめようと試みた。
「さあさあ、いい子だから」
  いい子? 幼児のときでさえ、ジュリアはそんなことを言われたことはなかった。 年子ですぐ下に妹ができ、常にお姉さん扱いされて、さまざまなことを我慢してきた。
  いつも冷静で物事をわきまえている長女だったジュリア。 いつも『いい子』な少女に、ひとはわざわざ念を押したりはしない。
  でも、行儀のいい子だって可愛がられたい。 大人から無条件にかまってほしいときだってある。
  目の前の男はおとなだった。 実年齢に関係なく、非常に大人っぽくて頼もしく、しっかりした道徳心があるようだった。 だからジュリアは、不意に子供に返って、子供時代にできなかったことを大胆にもやってしまった。 つまり、男に抱きついて、胸に顔を押しつけてしまったのだ。


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