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待ち焦がれて 1
 


  コーンウォール地方は風が強い。 朝から晩まで強風が吹き荒れることもしばしばだ。 高いところに上がれば、当然風当たりは耐え難いほど強烈になる。
 その晩春の午後、ジュリア・ウォルターズは片手で頭巾を押さえ、もう片方の手でスカートの裾を懸命にまとめながら、前かがみになってグレイズの丘を降りてきた。
  丘の麓には草原が広がり、川が曲がりくねって流れていた。 なで付けた猫の毛皮のように波打つ草原の雑草は、小柄なジュリアの腰まで届き、行く手を遮った。 狭い小道をたどるのに疲れきって、ジュリアは川のほとりで足を止めた。
  ヒューッという乾いた音が草原を駆け抜け、わびしい余韻を残した。 マントが大きくはためき、紐が首から外れそうになったが、ジュリアは無言で川面の小波に映る午後の太陽のきらめきを見つめつづけ、動こうとはしなかった。
  その耳には、つい先ほど別れた青年の、冷ややかな声がこだましていた。
「なぜ来たんです? 僕を引き止めるため? よしてください。
  いいですか。 あなたのお情けだけで荘園に置いてもらうのはもう嫌なんですよ。 遠い親戚だからって面倒を見る義務なんかない。 わかってるでしょう? もう放っておいてください。 かまわないで!」
  私には私の計画があった――ジュリアはそう叫びたかった。 あなたとエリナーを結婚させて安心したかった。 そして、私は……
  わずかの間止まっていた風が、不意に突風となって草原を襲った。 プチッと音を立てて紐が切れ、質素な黒いマントがジュリアの体から引きちぎられた。
 あっと思って手を伸ばしたが、一瞬の差で間に合わなかった。 マントは巨大なコウモリのように宙を舞い、みるみる中空を流されていった。
  意志を持った生き物のように遠ざかっていく黒い塊を眺めているうちに、ジュリアの心の中で何かが砕けた。 子供時代の小さな思い出が、鋭い苦痛を伴って不意に戻ってきた。
 
「エリナーは本当にきれいだ。 王宮の庭園で見たピンクの薔薇のようだ」
  ウッドワード伯爵の二男でレイキャッスル子爵のパトリックが、五月祭で着飾ったジュリアの妹を見て、感にたえたように呟くのを聞いて、友達で腰巾着のクレイトン男爵令息が陽気に尋ねた。
「姉さんもいるよ。 美しいジュリア・ウォルターズ嬢はどう?」
  とたんにパトリックの端整な顔に皺が寄った。
「ジュリア? あんなの!」
「うちの親はべた誉めだぜ。 礼儀正しくしとやかで、たいへん頭のいいお嬢さんだって」
  パトリックは鼻で笑い飛ばした。
「ジュリアなんてエリナーの足元にも及ばないさ。 つんつんした気取った顔して、おとなの前じゃ私はいい子でございますって。 吐き気がする!」
  木陰でたまたま本を読んでいたジュリアを意識しての高い声だった。 ページに顔をうずめながら、ジュリアの胸は石を抱いたように沈んでいった。
 
  あれからもう6年は経つのに、折に触れて思い出すのには理由があった。 ジュリアのほうはもう忘却の彼方に追いやりたい思い出なのだが、相手が忘れさせてくれないのだ。
  ウッドワード邸の奥庭で起こったその小事件以来、ジュリアはパトリックが嫌いになった。 嫌って当然なのに、敬遠されるようになったパトリックは、自分のしたことを覚えていないらしく、ジュリアに一方的に冷たくされていると思い込んでそう言いふらし、お茶会や舞踏会で出会うたびに意地悪攻撃を仕掛けてくるのだった。
  逆恨みだ、とジュリアは思う。 バトリックのせいで、彼女は出不精になってしまった。 買い物や散歩には喜んで行くのだが、パーティーとなると出かける前から気が重くなる。 自然、どうしても出席しなければならない集まり以外は、足が遠のいた。
  兄か弟か、男のきょうだいが家族にいれば、なんとかしてくれたかもしれない。 それに母がいれば相談できた。 だが、ジュリアとエリナーの姉妹は早くに母を失い、父は娘の気持ちに理解を示すような性格ではなかった。
  そのせいで、ジュリアにとってはとんでもない事態になりかけていたのだ。
 
「もうお終いにしよう」
  不意に呟くなり、ジュリアは突発的に波立つ川面に身を投げ出した。 16世紀の貴族の娘にはごく普通のことだが、彼女はまったく泳げなかった。 長いスカートはたちまち水を吸って倍以上の重さとなり、きゃしゃな娘の体を水底に引きずりこんだ。
  初めて味わう胸苦しさにあえぎながら、ジュリアは不思議な解放感を味わっていた。 これでもう悩みはない。 重くのしかかる荘園経営も、わからずやの父も、逃げていった親戚も……
 

  フン、フン、という鼻息と、砂利を踏みしだく蹄鉄の音に、安寧を乱されて、ジュリアは薄く目を開いた。 目の前は一面の青だ。 どこまでも続く薄い青…… 空なんだ、と、端のほうに雲の小切れを見つけて、ようやくジュリアは納得した。
  そのまま横に流れた視線の先に、馬がいた。 ジュリアはもう、広い草原にたった一人ではなかった。 いつの間にかそこには黒い馬の姿があって、目が合うと、向きを変えてジュリアのほうに進んできた。
  大きな馬…… 見たこともないほどの、その巨大さに圧倒されて、ジュリアは横たわったまま身を小さくした。 両腕で体を庇ったそのときに、悟った。 服を着ていない!
  何か大きな布のようなものが、ジュリアの全身を一巻きしていた。 のっしのっしと近寄ってきた馬がしきりに匂いをかぐ様子からして、どうも馬にかける毛布らしく、彼 ( その馬はオスだった ) は、勝手に使っているジュリアにご不満な気配だった。
  馬が川から人間を救うはずはない。 はっとしたジュリアが跳び起きると、足音が近づいてくるのがわかった。
  草むらの中から現れたのは、茶色のマント姿の男だった。 馬に劣らず大柄だ。 しかし、斜面を踏みしめて歩いてくるのを見ると、体の大きさの割に身軽で優雅な動作だった。 
「ここの水は冷たいな」
  男の第一声が風を切ってジュリアの耳に入った。 澄んだ、やや重い声だ。 ジュリアは半ば放心状態で、男の顔を見つめ続けていた。
「これが落ちていたので拾ってきた」
  そう言いながら男か見せたのは、黒いマントだった。 さっきは意志を持つもののようにジュリアの手をすり抜けたのだが、またこうやって戻ってきた。
「誰のものかわからないが、服が乾くまでまとうには格好の品だ」
  差し出されたマントを、ジュリアは少しためらった後に受け取り、低く礼を言った。
「ありがとう。 どなたか知りませんが」


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