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リネットの海  78


 パーシー卿は、だいぶ元気を取り戻したマーカスと、頭を突き合わせて相談し、新発見の海賊船を引き上げる許可を貰いに行くことにした。 一刻も早く権利を得ておかないと、またウィルキンソンのような邪魔が入ることを心配したのだ。
 シャンタルが仕事でマドリッドに戻るため、卿も一緒に出発することになった。 やっと婚約(まだ秘密だが)できたので、嬉しくてできるだけ一緒にいたいのだろうと、リネットは推察した。
 彼女自身も、時間が許す限りロルフと共に働いていた。 正式な許可が下りるまでは、海賊船の沈没位置を隠しておかなければならない。 従って、正確な地図を描き写したり、申請書類を作ったりするのは、もっぱらリネットとロルフの仕事になった。
 手先の器用なリネットは、喜んで父の『秘書』となり、ロルフと相談しながら任務をこなしていった。 その合間には、彼と海岸に出かけ、潜水夫の装備や、引き上げに使うやぐらなどを見せてもらった。

 薄灰色の浜辺を動き回ると、大きな帽子を被っていても日焼けした。 ロルフも浜に出るときは窮屈なネクタイを外し、ズボンをまくしあげて歩くので、現地の若者のように見えた。
「見てくれよ。 こんなに足が黒くなった。 二人とも筋肉がついて小麦色に日焼けして、すっかり田舎の子になったな」
 ロルフの明るい声が、静かな浜辺に響いた。
 測量儀を右手に、海図を左手に持って、ロルフは細かく船の推定位置を計り、数値をリネットに伝えてメモさせているところだった。
 忙しく鉛筆を動かしながら、リネットは口を尖らせた。
「子? たしかあなたは私より十年以上年上のはずよね」
「いいじゃないか。 若く見えるんだから、その気にさせてくれよ」
 そう言って、ロルフはだいぶ伸びた前髪を海風になびかせて笑った。
 確かに、彼はきれいだった。 鼻の下に蓄え始めた細い髭が、中世の貴族みたいによく似合って、漁師の娘たちの胸を大いにときめかせているという噂だった。
 紙ばさみを膝に下げて恋人と向き合うと、リネットは真剣な面持ちで尋ねた。
「見た目は若いわ。 でも、あなたは世界を知っているし、いろんな経験をしてる。 私みたいな子供じゃ物足りないんじゃない?」
 驚いた表情で、ロルフは顔を測量儀から離し、リネットのほうへ向けた。
「なんで急にそんなこと言い出すんだい?」
 リネットは小さく肩をすくめた。
「不安なのよ。 母やシャンタルさんが愛されるのはよくわかるの。 でも私じゃ、足元にも及ばない」
 ロルフは体の向きを変え、目を細めてはるかな水平線を眺め渡した。
「ほら、この広い海を見てごらん。 沖に出れば、台風に襲われたり水や食料が尽きたりする。 昔の船乗りは、文字通り命がけで、このとてつもない広がりに小さな船で漕ぎ出したんだ」
 腕がすっと伸びて、リネットを脇に抱き寄せた。 強靭でしなやかな長い腕だった。
「新しいことをするときは、誰だって不安だ。 わたしも初めて南米に赴任して、荒っぽい作業員に取り囲まれたときは、怖くて足がすくんだものだ。
 恋は冒険。 結婚は大冒険」
 リネットが首を傾けて見上げると、ロルフの口が上がり、象牙のような歯が覗いた。
「幸せな結婚はベタ凪ぎの海みたいだと言う人がいる。 波風立たないで退屈だってね。
 でも、人には港が必要だ。 いや、君だったら母船かな。 とてもじっとしてなんかいられそうにないものね」
「私が、あなたの母船?」
「そうだよ、かわいいアヒルちゃん」
 アヒルって何だ。 ロルフはリネットにスイートハートと呼びかけず、ダッキーと冗談ぽく言うのだった。
「ダッキーって普通、女性が男性に言う言葉でしょう?」
「じゃあダックリング(アヒルの赤ちゃん)にしようか」
「嫌だ、もう! 赤ちゃん扱いして!」
「かわいいんだもの。 あまり可愛くて、からかわずにはいられないんだよ」
「そんなの駄目。 さあ、こことここに手を回して」
「こうやって?」
「そう、レディらしく腰を抱くのよ。 それから、私の眼を見て」
 ふたりは、お互いの胴に手を置いて、じっと見つめ合った。 周囲に笑い皺を寄せていたロルフの瞳が、真剣な光を帯びた。
「リネット、君を愛してる」
「私もあなたを愛してるわ。 とても、とても大事に思ってる。 だから、ちゃんと申込んで。 仄めかすだけじゃなくて」
 上空の太陽がそのまま降りてきたような明るい笑いが、ロルフの顔一杯に広がった。
「海に沈んだ宝物より大切なリネット、結婚してくれ」
 リネットは笑わなかった。 素直な心がそのまま表れた真剣な眼差しで、恋人に見とれたまま頷いた。
「嬉しいわ。 ありがとう、私を選んでくれて」
 ロルフの手から測量儀が落ちて、砂にめりこんだ。 固く抱き合って動かなくなった二人の周りを、カモメが白い羽を光らせて飛び過ぎていった。


【完】



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