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 不意にハーミアは身を翻して立ち上がった。 だが、部屋に帰ろうとはせず、漆のような暗闇が支配する庭を、ガラス越しにぼんやりと見やった。
「ずっとわからなかった。 なぜその人の顔をまともに見ることができないのか、なぜその人がそばに来ると居たたまれなくて逃げ出したくなるのか。
 だからずいぶん無愛想に振舞って、遠ざけてしまった頃にやっと気付いたの。 自分で自分の心に嘘をついていたことに」
 白く長い指が、ゆっくりと同じ色の窓枠をたどって力なく下りていった。
「初めて見たとき、はっとしたの。 こういう窓の向こうから、にっこり笑いかけてくれて、ぱっと目の前が光ったような気がした。
、笑い返したかったわ。 戸口に早足で歩いていって、こんにちは、ハーミアです、ご一緒に旅ができて楽しいでしょうねって言いたかった。
 でも前の日に、彼の噂を聞いてしまっていたから……蝶のように女性の間をひらひらと飛び回る人だと思ったから、そんな人に一目で惹かれたなんて自分に認めたくなかった。 どうせたくさんある花の一輪にしか扱われないと思ったし」
 ぎゅっと閉じた瞼の下から、初めて涙が溢れ出た。 ハーミアはもう、自分の悲しみを隠そうとはしなかった。
「でもすべて見せかけだったんだわ。 彼はプレイボーイどころか誰よりも紳士だった。 本当は女嫌いなんじゃないかと思ったほどさっぱりしていたわ。 だから私」
 前が見えにくくなったので、ハーミアはバッグからハンカチを引っぱり出して眼に当てた。
「黙っていたの。 黙ってそっと愛し続けていこうと決めたの。
 お母様、世の中ってうまく行かないものね。 私たち、すれ違ってしまったのよ。 もう自尊心にかけて、あの人は戻ってこないわ。 断ってしまったんだもの。 当然よ……」
 指から力が抜け、ハンカチが床に落ちた。
「私がどんなに愛しているか、あの人は知らない。 一生知らないで終わるんだわ。
 胸が痛いの。 ベッドに入って眼を閉じると、あの人が迎えに来た夢を見るの。 夢中で飛び起きると、真っ暗闇の中に独りぼっち……
 こんな思いをするなら、初めから会わなければよかった……」

 ユーナは一言も発しなかった。 そして、慰める代わりに、すっと席を立って廊下へ抜けていった。
 ハーミアも後についていこうとして、一歩踏み出した。 そのとき、窓のすぐ横の扉が、音もなく開いた。
 中から現れた姿を見て、ハーミアは棒立ちになった。 目が涙でかすんでいて、おぼろげな影としか映らなかったが、それでも見間違うはずのない姿だった。
 おびえ切った表情になったハーミアに、その影は大きく両腕を広げた。 お互いに言葉は要らなかった。 というより、出せなかった。
 新たな涙が、どっとハーミアを襲った。 激しく泣きじゃくりながら、ハーミアは手提げを落とし、自分も伸ばせる限り腕を伸ばして、戸口に佇むラルフの胸に飛び込んでいった。



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