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 馬車をできるだけ急がせたが、それでもチルフォード一家がライベリーの町に着いたのは日がとっぷりと暮れた後だった。
 しかし夫妻には慌てた様子はなかった。 事実、遅くなってから到着したにもかかわらず、旅館はあっさりと部屋を用意してくれ、すぐに入ってくつろぐことができた。

 少し休んだ後、一家は服を改まったものに着替えて、下の食堂へ下りていった。 夫妻は楽しげだったが、やはりハーミアは元気がなく、柔らかいマトンの焼肉を少し切り分けたものの、半分以上皿に残してしまった。
 食堂には他に三組の先客がいた。 商談でもしているらしい中年紳士が二人と、ティーカップを前に置いて新聞を読んでいる若い男。 それに、にぎやかに話し合っている四人の男女で、この人たちはヘレフォードから故郷のヘイスティングスに戻る途中らしかった。
 やがて新聞から顔を上げた若い男は、後から端のテーブルに座ったハーミアに初めて気付き、しばらく目が離せなくなった。 じろじろ見つめられても、いつもならそう気にしないのだが、疲れているし、いろいろ悩み事があったハーミアは、やりきれなくなって母に囁いた。
「もう部屋に引き取っていいかしら」
「そうね、じゃ一緒に行きましょう」
 後はキースに任せて、女性二人は食堂を後にした。

 階段を上った突き当たりに大きなガラス扉があり、丸く張り出したバルコニーに通じていた。 扉の横には灯りが取り付けられ、座って外の景色を楽しめるようにスツールがしつらえられていた。 ハーミアは自室の方へ曲がろうとしたが、ユーナはさっさとその低い椅子に腰を下ろしてしまった。
「ねえ、ハーミア、ちょっとここに座ってキースを待っていましょう」
 仕方なく、ハーミアも気の進まない様子で横に席を取った。 ユーナは膝の上にきちんと手を重ねると、おだやかに切り出した。
「あなたは来年で十八ね。 そろそろ真面目に縁談を考える時期じゃない?」
 母の胸のあたりに視線を置いたまま、ハーミアは生気のない声で答えた。
「私は、お父様とお母様が決めた人と結婚します」
 ユーナは口に手を当てて、コホンと咳をした。
「親のいうことを聞いてくれるのは嬉しいけれど、無理強いはしたくないわ。 どう? 心に決めた相手はいないの?」
 予期していた反応は出なかった。 表情を少しも動かさずに、ハーミアは視線だけを伏せた。
「いいえ。 本当のことを言うと、ほとんど約束した人がいたんです。 でも、その話は取り消しになったの」
 わずかに上半身を乗り出して、ユーナは尋ねた。
「そのお相手は、もしかしてバートンさん?」
 初めてハーミアの顔に動揺が走った。 こらえにこらえていたものが、思わずちらりと姿を見せてしまった。
「いいえ」
 母に打ち明けたい、と、ハーミアは心から願った。 これまで誰にも相談できず、胸の奥底に全力で封じ込めていたこの想いを。
 ハーミアがマティに贈り物を持ってきたのは、半ばそのためだった。 結婚間近で幸せなマティなら、すれちがってしまった恋の顛末をゆったりした気持ちで聞いてくれるかもしれない。 美しすぎるハーミアにはこれまで親友がいなかった。 失恋したとわかったら表面は慰めてくれても、陰でそれみたことかと言いふらされそうで、誰にも話せなかったのだ。
 でも母なら、これまで実の親以上に大事にしてくれたユーナなら、もう告白してもかまわない気がして、ハーミアはようやく口を切った。
「その人を愛していたわけじゃないの。 ただ、とても大事なときに助けてもらったから、感謝の気持ちで。
 私……私ね、あまり真剣に結婚ということを考えていなかった。 普通の気立てで、特に悪いことをしない人なら、誰でもいいくらいに思っていたの」
「まあ、ハーミア!」
 掛け値なしにびっくりして、ユーナは胸に手を当てた。
「どうしてよりにもよってあなたが、そんなに投げやりなことを考えるの?」
 ハーミアは首を垂れた。 白いうなじが頼りなく揺れた。
「それは、叶わない恋をしていたから」

 沈黙が冷気のように二人を覆った。
 この町まで来ると、もう海の音は聞こえてこない。 五時にはどの店も閉めてしまうので、街中といっても通りは静かで、伝わってくるのは馬屋からのかすかないななきぐらいだった。



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