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 皇太子は驚くほど呑気だった。 階段を下りながら、ラルフを手招きしてこう言い放った。
「君も一緒にどうだ? 女性と賭け事は軍人の華だろう?」
「ご招待に乗りたいのはやまやまですが、片づけなければならない細かいことがたくさんありますので」
 ラルフが丁重に断ると、皇太子は残念そうな顔をした。
「そうか。 久しぶりに面白い男と知り合えたと思ったのだが。 ええと、バートン君だったね。 また会おう。 ぜひ会おうな」
「喜んで」
 できれば忘れてほしいと願いつつ、ラルフは優雅に頭を下げた。

 皇太子がハーミアにも微笑を投げて、廊下を曲がっていった後、ラルフは軽い武者震いのようなものを感じながら立ち止まった。 同時にハーミアも足を止めた。
「あそこまで悪あがきするとは思わなかった。 怖い思いをさせましたね」
「いいえ……」
 さすがに語尾が消えかかったが、それでもハーミアは気丈に答えた。
「伯爵の高慢な物言いを聞いていたとき、昔を思い出しました。 太陽の照りつける暑い日で、私は六歳ぐらい。 父と一緒に馬車に乗っていました。
 酒樽を運んでいた男の人が、暑さにふらっとなったんでしょう。 車輪の前に倒れこんできて、轢かれてしまったんです。 血が流れて、すごく怖かった……
 でも、父はただ怒っていました。 平民が間抜けたことをして馬車を汚した、予定を遅らせたと言って。
 父にとって、平民は人間じゃなかった。 踏み潰してもかまわない存在だったんでしょう。 あのローワン伯爵も、きっとそう考えていたんだわ。 人は立場によって、どこまでも傲慢になり、自分を神と思い込むまでになってしまうんですね。
 私も昔は貴族で、言うなら伯爵の側だった。 あんな残酷な人殺しの……」
 うつむいてしまったハーミアの顎に、ラルフはそっと手を添えて上を向かせた。
「そういう人間も中にはいるということです。 権力を振り回さない人だって多い。 ラファイエット氏をごらんなさい。 モンテスキューの業績を思い出して」
 睫毛の先に宿った光る粒を、まばたきで払い落として、ハーミアはぎこちなく微笑んだ。 どこか哀しげなその微笑は、これまで彼女が見せたどんな華やかな笑顔よりもラルフの心に食い込んだ。
「そんな寂しい顔をしないでください。 あなたはこんなに若いのに、苦労で気持ちが老成してしまった。 他の娘たちみたいに、大口あけて笑ったり、庭中走り回って『犬とウサギ』遊びなんかしたことがないんでしょう?
 あなたを大笑いさせてみたい。 無邪気に跳ね回ったり、冗談を言ったりするところを見たい」
 熱く燃えるラルフの瞳に視線を据えたまま、ハーミアは切れ切れに呟いた。
「そんな日は……たぶん来ません。 私は自分の楽しみの代わりに義務を選びました。 亡き人たちへの忠誠を誓いました」
「死人は墓の下だ! あなたのしたことを喜びはしても、幸せにはしてくれない!」
 間近で話しているうちに、自分でも予想できなかった激情がラルフの体を覆い尽くした。 大きく胸を波打たせながら、彼はハーミアを引きずり上げるようにして唇を奪った。


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