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 三人は、チルフォード一家のすぐ横を通り抜けていった。
「ジョージ殿下はどこだ? 見当たらないようだが」
「もう賭け事の間に入ったんだろう。 それともレディー・マーサを連れて、例の煙草屋の二階にお忍びで行ったとか」
 また笑い声が響き、ハーミアは扇で顔を隠したまま身震いした。

 三人の声が遠ざかっていくのを確かめて、ハーミアは父親に早口で問い掛けた。
「今入ってきた人たち、どなた?」
 キースは娘があまり声を落としているので、体を倒して耳を寄せた。
「え? ああ、小柄なのがゲイランド従男爵、馬のような顔をしているのがシティの銀行家で……ちょっと名前を忘れた」
「もう一人の、厳しい感じの人は?」
 息をひそめて尋ねる娘に、キースは嫌な予感を味わった。
「あれか? ケント州の長官で、国務大臣になる日が近いと言われている、やり手のローワン子爵だ」

 ケント州の長官…… ケントといえば、シモンズコープやアレンマス村のある、そして『潮風邸』の建っていた、イングランド南東部一帯の土地だ。 まさか、と、ハーミアは自分の耳を疑った。 聞き間違いかもしれない。 風や波の打ちつける中で、ただ一度だけ聞いた恐ろしい笑い声が、ローワン長官とそっくり同じだなんて。 人もあろうに、州の最高責任者が、この世で最も卑劣な海賊、破船賊の首領だったなんて!

 ハーミアは目を閉じて、波立つ心を静めようとした。 ラルフの低いきっぱりした声が、記憶の底から蘇ってきた。
『忘れなさい。 かかわらないことだ。 あなたの手におえる相手じゃない』
 ラルフ…… ハーミアの唇が震えた。 彼は今、どこでどうしているのだろう。 州の長官という途方もない大物を敵に回して、いつまで無事でいられるのか……

 一家は玄関に出て、馬車を待った。 いつもならすぐ回されてくるはずの馬車だが、なかなか置き場から出てこない。 ユーナがくしゃみをしたので、キースがコートの襟を立て、毛皮のストールを巻き直してやった。
「ありがとう。 それにしても遅いわね。 馬をつなぐのにてこずってるのかしら」
 空は黒灰色に濁り、細くちぎれた雲が次々と流れていく。 今にも雨が落ちてきそうだ。 ハーミアはコートの端を押え、なんとか落ち着こうとしていた。
 低気圧のせいだけでなく、不安な気持ちだった。 悪魔に再会したこと、その悪魔がすぐ傍を笑いながら通っていったことが、ハーミアの胸に空より暗い雲を呼んでいた。

 やがて、あわただしく馬車置き場の木戸が開かれ、チルフォード家の箱馬車が姿を現した。 ユーナはほっとして、帽子をしっかり被り直した。
「やれやれ、ひどい夜だったわ。 やっと帰れるわね」
 だが、ハーミアの動悸は、馬車を見たとたんに前より大きくなった。 なぜかわからないが、乗りたくなかった。 見慣れた馬車なのに、どこかいつもと違う気がした。
 御者が鞭を下ろし、馬は静かに止まった。 従僕がユーナに手を貸して乗せようとしたとき、ハーミアが不意に口走った。
「車輪が斜めになってるわ」
 それだった。 ようやくわかった。 さっきから違和感を覚えていた理由が。 ほんのわずかな傾きなのだが、神経が鋭くなっているハーミアの眼を逃れることはできなかった。
 従僕のランタンを借りて、ハーミアは車体の下を覗き込み、車軸を確かめた。 そこにはくっきりと、深い切れ目が入っていた。

 体を起こすと、ハーミアは小走りで両親の傍に戻り、切羽詰った口調で告げた。
「車輪をつなぐ棒が折れかかってる。 このまま走れば半マイルもしないうちに馬車が引っくり返るわ」
 話しながら、ハーミアは涙が出そうになっていた。 自分のせいだ。 自分が生き残りの目撃者だったから、優しい両親まで巻き添えにされるところだったのだ。


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