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 書斎のドアを開け、一歩踏み込むと、覚えのある生臭い臭いが鼻をかすめた。 それは、流されたばかりの血の臭いだった。
 ウォーレンは、デスクにうつ伏せになっていたところを抱き起こされたらしく、椅子の背にだらりともたれ、不自然に首の垂れた姿勢になっていた。
 こときれているのは明らかだったので、ちらっと見ただけで、ラルフはすぐデスクに目を走らせた。 すると薄い本の上に、四角い紙がきちんと置いてあるのが見えた。
 急いで手に取ると、それは蝋で封印した書状で、宛て先はなんと、『R・バートン殿』になっていた。
 ウォーレンは、危機を逃れたラルフが真っ先に自分のところへ来るのを見越していたのだ。 奪われないでよかった、と安堵しながら、ラルフは夫人にその書状を見せた。
「わたし宛になっています」
 夫人はぼんやりとうなずいた。 夫の自殺というあまりの衝撃に、周囲の出来事への関心が薄れているようだった。
 素早く手紙をふところに収めてから、ラルフはウォーレンの手を離れて滑り落ちた拳銃を拾い、椅子の向きを変えて、窓を開いた。 そして、一度外へ出た後、庭の泥を靴につけ、再び窓枠を乗り越えて書斎に入った。
 泥靴のまま、ラルフは部屋を横切ってデスクの横に行き、また窓から出て、植え込みに拳銃を投げ捨てた。 これで、ウォーレンは窓から侵入した何者かに殺されたという現場を作ったわけだ。

 靴の泥を落として書斎に戻ると、ラルフは夫人に言いふくめた。
「召使たちに口止めしてください。 ご主人は強盗に殺されたのです。 誰か有力者を……そうですね、ライベリーの町長か、州の役人を呼んで、この現場を確認してもらったほうがいいですね。 あらぬ疑いをかけられないように」
 新たな涙を流しながら、夫人は弱々しく答えた。
「わかりました。 でも逃げ出してしまった下男が何人かいますから、もうどこかでしゃべっているでしょう」
「少しぐらい言いふらしてもかまいません。 彼らの話は下々の噂になるだけのこと。 自殺が表沙汰にならなければ大丈夫です。 ちゃんと葬儀はできるし、牧師さんの祝福も受けられます」
 そこでラルフは、さりげなく尋ねた。
「それでも一応お訊きしておきましょう。 逃げた下男の名前は?」
「ベン・ザイアーとニッキー・シモンズです」
 その名前を、ラルフは記憶にしっかりと刻みこんだ。 おそらくこの二人は、破船賊の一味だったのだろうから。


 ラルフがウォーレン邸を後にして、いずこかへ馬を走らせていった六時間後の真夜中に、村外れの家が出火した。
 炎は風にあおられて、みるみる間に大きな屋敷を包み、巨大な松明のように燃えあがって空を焦がした。 火を見て駆けつけた村人たちも手のつけようがなく、ただ遠巻きにして、『潮風邸』が焼け落ちていくのを見守るばかリだった。


 それから一週間、不気味なほど平穏な日々が続いた。
 無事にロンドンへたどり着いたユーナ夫人とハーミアは、キースが新たに雇ったボクサー上がりの下男二人と、巨大な番犬四匹に守られて、外出もままならない生活を送っていた。 到着の翌日にはラルフから短い手紙が届いて無事を知らせ、当面の危険はないはずだと言ってきたが、キースはなかなか信じきれない様子で、大切な娘と妻を缶詰状態にしていた。
 だが、いくらひっそりとしていても、世間が放っておかない。 八日目に皇太子のジョージ・フレデリック殿下から、直々にパーティーの招待状が届いた。

「美女のほまれ高いハーミア嬢におかれましては、ぜひ祝賀会に花を添えていただきたく、ですって」
 ユーナは招待状を小机に投げて、額を手で押えた。
「何か祝賀会よ。 自分の馬がレースで勝ったお祝いじゃない。 まったく」
「でも、すっぽかすわけにはいかないわ」
 低い声で答えて、ハーミアは席を立ち、窓辺に行った。
 不安そうに、ユーナは呟いた。
「ウォーレンさんは死ぬし、『潮風邸』は放火されるし、恐ろしいことばかり」
「あれは私に対する警告よ」
 冬枯れの庭を見据えたまま、ハーミアが答えた。
「何もしゃべるな、親兄弟の復讐なんて考えるな、という脅しなのよ」
 ユーナは、疲れた様子でハーミアに近づき、窓の前にあるスツールに腰を落とした。
「あなた、ずっと覚えていたのね。 昔のことを」
「ええ」
 ハーミアの背中が揺れた。
「お父様とお母様に迷惑をかけたくないから、黙っていたの。 一文無しの外国人孤児をこんなにかわいがって育ててくださって、言いようがないほど感謝しています。 親孝行したいと、そればかり考えていたのに、こんなことになって、私……」
 声を詰まらせながら、ハーミアは激しく体を回して、育ての母に抱きついた。 ユーナも強く抱き返した。


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