表紙へ
表紙目次前頁次頁総合目次

10

 常連らしい青年は、グラスを手にして仲間とテーブルに歩き出した。
 その足が、見えない石に蹴つまずいたように、がくっと停まった。 茶色の眼が一点に固定して、瞬きもしなくなった。
「おい、どうしたんだよ、カーク」
 横にいた友人が不審そうに顔をあげ、とたんに激しく目をぱちぱちさせたあげく、手でこすった。
「すごい……!」
 二人が目にしたのは、母に手を貸して奥から姿を現したハーミアの姿だった。
 心なしか、食堂が凪いだ海のように静まってきた。 半数以上がハーミアに注目していて、特にカークと呼ばれた青年は口のきけない様子でぼうっと見とれていた。
 ハーミアは自然な態度で食堂を見渡し、連れの二人を発見して、ユーナをその場に残すと、狭い通路をなめらかに歩いてきた。 彼女が次第に近づいてくるのを、カーク青年は食い入るように見つめ続けた。
 注意深くラルフをよけてアシュダウンの横に立ち、ハーミアは低い声で告げた。
「母はもう気分がよくなったそうです。 お昼がまだでしたら、ご一緒しましょう」
「それはそれは」
 うれしそうに椅子を降りようとして、アシュダウンはよろめいた。 先ほどからの酔い方を見て予想していたラルフが、さっと手を伸ばして、倒れるのを防いだ。
「おお、ありがとう」
「どういたしまして」
 二人は優雅に頭を下げ合い、ハーミアを前に立てて歩き出した。
 そのとき、カークの呪縛が解けた。 一歩前に踏み出すと、青年は喉を締められた鶏のような声で呼びかけた。
「あの、カーク・レイモンドといいます。 失礼ですが、お嬢さんのお名前を聞かせていただけないでしょうか?」
 ハーミアは、表情を出さない眼を上げて、静かに答えた。
「ハーミア・チルフォードです」
「ハーミア……」
 感きわまって、カークは手を胸に押し当てた。 色白の顔に赤味が散って、ひどく初々しかった。
 うっとりしている若者のそばを、ハーミアはさっさと通り抜けていった。 後に続きながら、アシュダウンは眉を寄せてラルフに囁いた。
「何というのぼせ方だ。 ゲーテのウェルテルじゃあるまいし」
 クスッと笑って、ラルフは注意した。
「彼の相手は人妻でしたよ」
「そうか。 じゃ、ロミオそこのけと言おうか」
「どっちにしても叶わぬ恋ですね」
 何の動揺もなくなめらかに歩いているハーミアを眺めて、アシュダウンはうなずいた。
「この令嬢はジュリエットじゃない。 遥かにしっかりしていて、周りをよく見ている」
「冷静すぎますかな」
 ラルフは自分の口の中だけで呟いた。
 


表紙目次前頁次頁

Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送