表紙へ
表紙目次前頁次頁総合目次

06

 アメリカ独立、ナポレオン台頭と事件が続いた18世紀が終わり、19世紀の開始と共にイギリスは新しい国王ジョージ三世をいただいた。
 そして、イングランド、スコットランド、アイルランド、それにウェールズを加えた大英帝国となり、繁栄への道をひた走ることになる。
 だがそれは、今まで以上に激動の時代となる幕開けでもあった。 フランスとの戦いは世紀末から続き、ドーヴァー海峡付近は危険だからということで、チルフォード一家はその夏、アレンマスの別荘に行けなかった。
 村の若者たちは残念がった。
「ここんとこ何の動きもないのにな。 シモンズコープの入り江も静かなもんだぜ」
「グラティさんのヨットが座礁したぐらいだな、事件といえば」
「ああ……」
 ずんぐりしたジャーディンという旅館の息子が言葉を濁した。 その事故については、様々な噂が流れていたのだ。
 グラティというのはリヴァプールの町から来た貿易商で、砂糖の取引で財産を作り、残りの人生を楽しく過ごすためにロビンズヒルという丘の上に家を建てて住み着いた男だった。 いわゆるよそ者だが、愛想がよく、パブで気前よく人におごるため、人気があって好かれていた。
 その彼が、昔の友人を五人ほど招いてパーティーをやった翌日、ヨットでわいわいと海に乗り出すのを、漁師たち数人が目撃している。 しゃれた服を着た人々は、上機嫌で新品のヨットに乗船し、凪いだ海を称えて詩を作ったりしていた。 三人の船員が忙しくロープをほどき、白い船はなめらかに海面をすべっていった。 何の故障もなく、悪天候でもなかった。
 しかし二時間後、空が曇って風が吹き出した。 長年の経験から、漁師たちはすぐに悟った。 これは嵐の前兆だ。 人々は船を流されないように引き上げて厳重につなぎ、家に戻って戸締まりした。

 その夜ヨットに起こったことは、正確にはわからない。 乗員すべてが命を失ったからだ。
 内海向きに作られたきゃしゃな船はほとんど木っ端微塵に壊れており、座礁の原因を確かめるすべはなかった。
 事故だと当局は判断した。 しかし、遭難の直後から、いろんな噂が囁かれ始めた。 必ず焚かれるはずの灯台の火が、あの晩に限って見えなかったとか、ヨットの白い帆が、航路を遠く離れた岩に引っかかっていたとか。
 中でも不気味だったのは、狐火の噂だった。 強風が舞う入り江の崖に、赤い火柱が立っていたというのだ。 目撃したのが村で有名な酔っ払いのじいさんだったため、みんな本気にしなかった。 するとジョナスじいさんはむきになって幾度も繰り返した。
「ほんとだよ、おめえたち。 火の柱だよ。 聖書に出てくるみたいな。 それがほんのしばらくの間だけ空を焦がしてよ、ぱっと消えちまったんだ。 魔法みたいにな」


 座礁事故が起きたのは八月の中頃だった。 十月になり、フランスとの休戦協定が成立して、海岸線の緊張が解けた時分には、もう噂は下火になって、人々の記憶から遠ざかりかけていた。
 そんなとき、西南の外れにあるチルフォードの別荘を開ける準備が進んでいると知って、村の若者たちはどよめきたった。
 彼らが歓迎しているのは『別荘のお嬢さん』だった。 ハーミア・チルフォードは十七歳。 大人の入口に立ったその美しさは、ロンドンの大衆向け新聞に三美人の一人として肖像画付きで掲げられるほどになっていた。


 荷造りをするのは召使の仕事でも、女主人は細々と監督しなければならない。 ユーナ夫人は出かける前から疲れ、苛立っていた。
 落ち着かないのには理由があった。 今年は夫のキースと共に別荘へ行けないのだ。 キースは貿易会社の要職についていたが、外国、特にフランスの事情に詳しいのを買われて、最近はしょっちゅうブラッドリー将軍に呼び出されては相談を持ちかけられ、なかなかロンドンを離れられないのだった。
「これじゃまるで軍事顧問だわ。 そのうち本当に将軍付きの参謀になれなんて言われるんじゃないでしょうね」
 コートを選んでいたハーミアが、椅子に座りこんで額を指でもんでいる母を慰めた。
「大丈夫。 夏に行けなくて悪かった、秋の鴨猟とボート遊びを海辺で楽しもうって言い出したのは、お父様よ。 大物釣りもしたいから、詳しいお友達を連れてくるんですって。 ちゃんと後から来てくれるんだから」
「わかってるけど、キースの代わりに付き添ってくれるのが、あのラルフ・バートンじゃ」
 ユーナはぼやいた。
「あら、アシュダウンさんじゃないの?」
 意外そうにハーミアが首をかしげた。
「アシュダウンさんにくっついてくるの。 あのラルフが」
「あのラルフって」
 ハーミアのサファイア色の瞳が可笑しそうにまたたいた。
「そんなに評判悪い人?」
「いいえ、人気者よ。 でも……」
 言葉を濁して、ユーナはそそくさと立ち上がった。


表紙目次前頁次頁

Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送