表紙へ
表紙目次前頁次頁総合目次

04

 医師のジェレマイアは、村の西南に住む地主のウォーレンを往診に行こうとして玄関を出たとたん、道を飛ばしてきた黒い馬に危うく引っかけられそうになった。
 勢いあまって行き過ぎた後で馬の手綱を引き絞って止め、飛び降りてきたのは、ひどく焦った顔のキース・チルフォードだった。
「ジェレマイア先生! 間に合ってよかった」
「どうしました? 奥様に何か?」
「いや。 今日は違う用事です。 実は」
 急に声を落として、キースは用件を告げた。
 
 ウォーレン家に行くのは後回しにされた。 キースを案内して、ジェレマイアは石を積み上げた古風な家の奥に入り、五日前に救われた少女の部屋に行った。
 ドアは開いたままになっていた。 狭いベッドの上に、少女は腰かけていた。 体は元気を取り戻したようだが、子供らしい明るさはどこにもない。 部屋に入ってきた二人の大人を、鈍い眼だけが瞬きせず見守った。
 それでも、少女の顔を見たとたん、キースは息を呑んだ。 もつれた金褐色の巻き毛、紺色がかった青い眼、そばかす一つない肌まで、謎の少女はキース夫妻の愛娘ハリエットに大変よく似た面影を持っていた。
 少女をおびえさせないように、キースは小さな木の椅子を寄せてそっと座り、目の高さを近づけた。 そして、フランス語で語りかけた。
『こんにちは、マドモアゼル』
 マドモアゼル〔=お嬢さん〕という呼びかけに、少女はわずかに反応した。 やはりいい家柄の娘だったんだな、と感じながら、キースはていねいに言葉を続けた。
『残念ながら、君の家族は天に召されてしまった。 でも大丈夫。 これからは私の家で暮らそう。 もう逃げ回らなくていいんだよ。 この国は安全だ』
 少女は無表情にキースを見つめていた。 二秒、三秒…… 沈黙の壁が重くのしかかりかけたとき、少女の口が、救われてから初めて動いた。
『おじ様が、かくまってくれるの?』
 可憐な声だった。 切なく、頼りなげな、心を打つ響きを持っていた。 愛児を失ったばかりのキースは、胸がずきっとしてどうにもたまらなくなり、両手を伸ばして少女を抱き寄せていた。
 胸の中で、少女はおとなしく動かなかった。 潮の匂いが残る金髪に頬ずりしながら、キースは囁いた。
『そうだよ。 かくまってあげる。 すぐにうちへ行こうね。 新しいお母様が待っているよ』

 ユーナは窓辺にひざまずき、聖書を読んでいた。 しかし心は詩篇に集中できず、思い出の中をさまよっていた。
 足元に小犬が来て、そっとスカートの端を踏んだ。 見下ろしたユーナの眼に、また涙が浮かんだ。
「ああ、メラニー……去年はあの子と浜を走っていたね。 おまえはいつもあの子を御守りしてくれた。 迷子にならないように、見張っていてくれたね」
 黒い小犬は光る鼻を上げて、女主人をじっと見つめた。 心なしか、元気を失った主人を心配しているような表情だった。
 だが次の瞬間、メラニーは不意に体を引き締めて向きを変え、吠えながらドア目がけて飛んでいった。 するとすぐに扉が開き、キースが姿を現した。
「ユ−ナ」
 彼の声は隠し切れずに弾んでいた。
「連れてきたよ。 まあ見てごらん。 驚くよ」
 溜め息混じりに、ユーナは顔を上げた。 ほとんど期待はしていなかった。 人助けだと思って引き取るのには同意したが、少しぐらい似ていたってハリーには及びもつかない。 あの子はこの世でただ一人、天使みたいに可愛かったんだから……
 その手が、びくっと痙攣した。 窓から聖書が落ち、床で鈍い音を立てた。
「まあ、こんな……!」
 キースに促されて部屋に入ってきた少女は、戸口で立ち止まって、じっとユーナを見つめていた。 ほっそりした優雅な姿と、泣き腫らした眼を持った、上品な夫人を。
 ユーナも少女を食い入るように眺めた。 いくら見ても見飽きないように。
 やがて、唇が動いた。
「ハリー……」
 少女は二度まばたきした。 それから、ためらいがちに夕闇の室内を進んできた。
 はかなげな瞳が見上げたとき、キースと同じようにユーナも少女のとりこになった。 本当のことを言えば、少女のほうがハリエットよりずっと美しかったが、親の欲目で、二人は彼女こそ神が授けたハリエットの身代わりだと固く信じこんだ。
 ユーナは立ち上がった。 そして、ゆらめく足取りで少女に近づき、肩に手を置いて、壊れ物のようにそっと引き寄せた。


表紙目次前頁次頁

Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送