表紙へ
表紙目次前頁次頁総合目次

03

 ケント州オークニー行政区の長官が呼ばれてやってきたのは、午後も遅くなってからだった。
 長身痩躯で目の鋭いダニエル・ローワン長官は、まだ吹き止まない強風を気にしながら、馬上で部下たちを指揮した。
「遺体の性別と人数をきちんと書き込んでおけ。 荷物は? そうか、昨夜の天気では流されてしまったな……おっと、帽子が飛びそうだ。 なんという風だ!」
 若い部下が、地元民から情報を聞きつけて報告に来た。
「生存者がいる模様です」
 驚いて、ローワンは身を乗り出した。
「ほんとか! じゃ遭難の事情が聞けるな」
「いえ、それが」
 部下はためらった。
「六、七歳の子供だそうで。 おまけに岩で頭を打ったらしく、英語はもちろん、医者が少し知っているフランス語で話しかけてもぼうっとして答えないらしいです」
「それは困ったな」
 ローワンは眉を曇らせたが、それでも一応、子供が預けられているという医者の家へ行くことにした。


 季節は七月末だった。 このアレンマス村は風光明媚で、有名な寺院のあるカンタベリーにほど近いところから、保養地として訪れる人が多い。 ごみごみしたロンドンを逃れるために村はずれへ別荘を建てた一族もいて、今年は月の半ばから滞在していた。
 チルフォード家の人々が例年より少し早く来たのには理由があった。 細君のユーナが晩春に一人娘を失くし、その打撃からなかなか立ち直れずにいたため、転地すれば気持ちが晴れるかと夫のキースが気を使って、半月早く別荘を開けさせたのだ。
 確かに、美しい景色はユーナ夫人の心をなごませた。 しかし、夜になると決まったように屋敷を包み、方向を定めずに吹き荒れる風の音は、ユーナの寂しさを増す役割しかしなかった。
 朝になると決まって、寝不足と涙で赤くなった眼で、ユーナはキースに嘆くのだった。
「せめてハリエットが、あんなにかわいくなかったらねえ。 頬は陶器のようにすべすべで、眼は泉のように真っ青で。 ボンネットを被って歩くと、みんな振り向いたわねえ。 なんて愛らしいお嬢ちゃま、絵にも描けない美しさだって」
「うん、そうだね」
 こういうとき、どう言ったら気持ちが休まるのだろう。 口下手だが妻への愛情は人一倍強いキースは、うまく慰めの言葉を返せない自分に苛立ちながら、相槌を打つことしかできなかった。
 薄いローンのハンカチで眼の縁を拭いながら、ユーナは続けた。
「気立てもよかった。 庭で摘んだひなげしを、お母様へって走って持って帰ってきたりして。
 ああ、あなた! あの子のいない毎日なんて、私耐えられない!」
 どっと泣き崩れた妻を抱えて、キースは途方に暮れた。

 誰も助言してくれなかった。 当時は食糧事情も衛生状態も今とは比べ物にならないほど悪く、生まれた子供の半数近くが幼いうちに世を去った。
 だから人々は、ユーナの嘆きに大して同情せず、むしろ早く次を産めとせき立てた。 それがますますユーナを追いつめていた。
「私たち、こんなに仲がいいのに、ハリーが生まれてから七年、次の子供ができなかったわ。 もう生まれないのよ。 私にはハリエットしか授からなかったんだわ」
「ユーナ、思いつめないでくれ。 子供はいなくてもいいよ。 僕には君さえいれば」
「やさしいのね。 でも、そんな慰め方はかえって苦しい。 もう生きているのが辛い!」
「ユーナ、僕のユーナ、気持ちを楽にしてくれよ。 お願いだ」
 そろそろキースも疲れ果ててきていた。 この蟻地獄状態からなんとかして抜け出したいとあがいていたとき、キースは難破船の少女の噂をふともれ聞いた。
 話していたのは、下働きの女中たちだった。 台所で鍋を磨きながら、大声で世間話にふけっているのが、廊下を通ったキースの耳に入った。
「ぶったまげたよ、なあ」
「うん、そっくりだったね」
「ほっぺたにすり傷があったが、あれがなきゃ、ハリエットお嬢様そのものだよ、まったく」


表紙目次前頁次頁

Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送