表紙

幸福の条件 5


延ばしに延ばしていたアメリカ行きを、すぐに美鈴は決心した。 向こうで生んで育てるのが一番だ。 血のにじむような2年間のおかげで、ニューヨークには日本よりも友達が多い。 芸術家仲間には未婚の母もいた。
 
  思い立つとすぐに、美鈴は荷造りを始めた。 一応父には連絡しておいた。 せっかく改装したマンションが無人になりそうだと聞いて、桂は残念がった。
「どこか気に入らないなら、すぐ直しなさい。 費用は気にしないで」
「違うの。 アメリカから仕事の依頼が来たし、ニューヨークは刺激的だから。 日本に戻ってきたときには、もちろんこのマンションに住むわ」
  子供のことは話せなかった。 桂には美鈴たち母子を捨てた前科がある。 昔の傷を今さらかきむしりたくなかった。
 

 奇妙な偶然ということがあるものだ。 ひっそりとアメリカへ帰るために、ごく目立たない格好で空港の待合室に座っていた美鈴は、大き目のカバンを転がして歩いてくる若い男の姿を認めて、思わず視線を釘づけにした。
  相手もすぐ美鈴に気づき、大股になって速足で近づいてきた。
「レイ!」
  それは、別れた恋人、春日井洋介だった。

  二人は空港の喫茶室で、4年ぶりに会話を交わした。 レモンティーを前にして、いくらか硬い声で洋介は言った。
「成功おめでとう」
「まだ駆け出しだけど、でもありがとう」
  2秒ほど言葉が途切れた。 先に話し出したのは、やはり洋介だった。
「俺のほうもいろいろあった。 七恵とは別れたんだ」
  美鈴はあっけに取られた。
「なぜ!」
  洋介はうつむいて、ぐるぐるとスプーンでカップをかき回した。
「なんか、だんだんすれ違って。 君が賞もらったぐらいから、あいつ、怒りっぽくなってさ。 息が詰まる、もうやってられないって。 子供ができなかったのも原因の一つかな」
  ゆっくり美鈴の手が脇に落ちた。 憮然としたその表情を、そっと洋介が流し見た。
「バカだよな、俺。 二股かける奴をずっと軽蔑してたのに、自分がなってみると」
「もういいよ」
  聞きたくなかった。 それより、七恵と話したいと不意に思った。
「七恵、どうしてる?」
  言いにくそうに、洋介はテーブルの上のものに視線を泳がせた。
「他の男と結婚した」
「そんなすぐに?」
  思わず大声で言ってしまって、美鈴は口を抑えた。 洋介は元気なくうなずいた。
「いい気持ちじゃなかった。 俺と別れる前から仲良かったらしい。 因果応報ってやつかな」
  七恵ってそんな性格だった?――自分の観察眼に、美鈴はますます自信をなくした。 親友だった杉原七恵 (今は何と名乗っているのだろう) が、まったく別の人に思えた。
  そのとき、洋介がぼそっと言った。
「レイに会いたいって言ったことがあったよ、七恵が」
  美鈴は驚いて顔を上げた。
「そう?」
「うん。 一度だけだけどね。 会ってまた話したいな、でも駄目だろうなって」
  七恵も失うものが多かったんだ――うまく気持ちの整理が出来なくて、美鈴は小さくため息をついた。
「ニューヨーク行き306便に御搭乗のお客様は……」
  かすかにアナウンスが響いてきた。 美鈴は唇を噛んで立ち上がった。
「私の飛行機だ」
  洋介も立った。 そして、思い切って言った。
「俺、シアトルに行くんだ。 駐在員になった。 それで、あの…向こうで電話してもいいかな」
  振り向いて、美鈴は努力してほほえんだ。
「いいよ。 番号は?」


 ニューヨーク郊外のアパートを借りて、美鈴は仕事に励んだ。 ときどき洋介が電話してくる。 二人とも意識して昔のことは言わなかったが、それでも話題がはずんだ。 やはり気が合うのだ。
  彼がまだ美鈴に関心があるのは、言葉の端々から明らかだった。 今更やり直す気はないが、美鈴の方にも懐かしさはあった。
  人生は交差点だらけだ、と美鈴は思う。 いったん立ち止まって、どう曲がるかみんな懸命に考える交差点。 だが、思ったとおりの目的地にはなかなか着かない。 やはりこれは運だろうか。 それともいわゆる天の配剤が、この世には実在するのだろうか。
  本格的な春が近づいてきたころ、美鈴の前に新たな交差点が出現した。 何の前ぶれもなく、朝倉峻がアパートを尋ねてきたのだ。
 

 ドアを静かにノックしたのが峻だとわかったとき、美鈴は扉を開ける決心がつかなかった。 もう妊娠6ヶ月で、胴回りがすっかりふくらんでいる。 思いもかけなかった彼の姿よりも、実のところ自分の姿が心配で、美鈴は苦悩を忘れてばたばたしてしまった。
  たっぷりしたフロックに着替えることを思いついて、ようやくドアを開けたときには、ノックされて10分は過ぎたころだった。
  峻は辛抱強く廊下で待っていた。 グレーのセーターと青いズボン姿だ。目が合うと、視線をしっかりと据えたまま、峻は低い声で言った。
「急に来て悪かった。 君がアメリカに戻ったと、おととい初めて知ったんだ」
  だから? 美鈴は彼が何を言いたいのか、まったく理解できなかった。 日本にいると思っている間は無視して、アメリカに来たとわかったとたんに飛行機にわざわざ乗って尋ねてきたとでも?
「入っていい? それとも外のどこかで話そうか?」
  戸口に無言で立ち尽くしている自分に気づいて、美鈴は体をよけて峻を中に入れた。
「座って。 コーヒー入れる」
  パーコレーターの準備をする美鈴を、峻はしばらく黙って見つめていたが、やがて立ち上がって近づいてきた。
「聞きたいんだ。 君が真剣になれるのは、絵だけなのか?」
  美鈴はかがみこんでカップを2つ取り出した。
「遊び相手はもういやだった。 そんなの……気分悪くて、誘うの止めたんだ。 でも、考えたら自分の気持ちを君に全然説明してなかった。
 だから来たんだ。 結婚しないか」

 青天の霹靂〔へきれき〕という書きにくい言葉があるが、その瞬間の美鈴のショックは、まさにそれだった。 カップを持ったまま腰をかがめて、美鈴はメデューサの首を見たように固まってしまった。
  男の声は淡々と続いた。
「急に会うのを止めて何ヶ月も経って、なに言ってるんだと思うだろうけど、こっちにもいろいろあって……行き止まりだと思ってしまったんだ。 あやまる。 ごめん」
  堂々と頭を下げられた。 驚きが二重になって、美鈴はようやく痛む腰を伸ばした。
「あの……言ってることがよくわからない」
  パーコレーターが沸騰した。 機械的にコップについで、砂糖壷とミルクをテーブルに乗せながら、美鈴は次第に指がふるえてくるのを感じていた。
  爆弾発言をした男は、気がつくと美鈴の描きかけの絵をじっと眺めていた。
「これ、以前とはずいぶん雰囲気が違うな」
  美鈴は心臓を冷たい手でつかまれたような気分を味わった。 子供を授かると知ってから、銀色の羽根のイメージが頭から離れなくなって、とうとう描いてみることにしたのだ。 初めての試みだったが、自分ではふんわりした色調が気に入っていた。
  プロポーズを忘れたように、峻はその絵のすぐ傍まで行って、しげしげと見つめ出した。 幼稚っぽいとバカにされるのではないかと感じた美鈴は、小声で言い訳した。
「たまにはいいと思ったの、メルヘンも」
  そのとき、ふいに電話から着メロが流れ出した。 予期していなかったので、美鈴は飛び上がるほどびっくりした。 しかも、携帯電話を手に取ると、響いてきたのは間の悪いことに洋介の声だった。
「やあ、元気?」
「うん、元気」
  峻に気を遣いながら、美鈴は答えた。 自然に彼に背を向ける格好になった。
「なに?」
「他人行儀だなあ。 声を聞きたくなっちゃいけないかな」
「そんなことはないけど」
「あのさ、今日目が覚めて、窓の外の木を見てたら、急にどうしようもなくレイに会いたくなってさ」
  こんなときに何を言い出すんだ――美鈴はあわてた。 困っている彼女に気付かず、洋介の声は続いた。
「あの、やり直せないかな。 レイの好きなようにするから。 結婚は縛られるようでいやなら、一緒に住むのもいいし、それ面倒なら、たまに会うだけでも」
  美鈴は危うく電話を落としそうになった。 あわてて空中で受け止めたとき、峻の動きが目に入った。 彼は、裏向きで無雑作に重ねてある美鈴の絵を、一枚一枚表に返して眺めていた。
「見ないで!」
  電話中なのを忘れて、美鈴は峻のところへ飛んでいった。 しかし一歩遅かった。 ある絵のところまで来て、峻の手が麻痺したように止まった。 それは、彼の寝顔を描いた絵だった。
  その絵を手に持ったまま、峻は首をめぐらせて美鈴を見た。 整った顔が紅潮して、はっとするほど若く見えた。
「これ……」
  電話から声が二人の耳に届いた。
「レイ! レイ? 誰か来てるのか?」
  二人の眼が合った。 美鈴は電話を持ち上げると、疲れた声で答えた。
「そう。 ごめんね、後でかけ直す」
「わかった」
  どうしようもない気持ちで、美鈴はテーブルに電話を置いた。 これまで一人の男性も確保できなかったのに、不意に二人同時に申込んでくる。 交差点もなにもあったもんじゃない。
  電話の横に自分の絵を並べて置くと、峻が呟くように尋ねた。
「レイって呼んでたね」
  美鈴には答えようがなかった。 峻はじっと彼女に視線を当てた。
「恋人?」
「昔の」
  とうとう美鈴は自虐的になった。
「親友に取られちゃったの」
「取られたって……」
  峻は絶句した。 美鈴は早口で続けた。
「不意に二人そろっていなくなった。 思い切り殴られたみたいで、まったく絵が描けなくなっちゃった」
「でも彼が戻ってきて描けるようになったのか」
「ちがう!」
  美鈴の全身が細かく震えた。
「戻ってなんかこなかった。 4年も経って、空港で偶然出会ったの。 もう離婚してた。 虚しかったなあ。 私の苦しみは何だったんだろうって」
  今こそ峻に話したかった。 誰のおかげで立ち直ったかということを。 だが、不意に降りかかってきたプロポーズのせいで、逆に口から出てこなくなってしまった。 美鈴はその代わり、峻に自分の生まれを話すことにした。
「大事にされてると信じていたけど、そうじゃなかった。 彼は両親そろったいい家庭の息子で、心のどこかで、父親のわからない私を軽く見てるところがあったんだと思う」
「でもまた付き合ってるじゃないか」
「付き合ってなんかいない。 ときどき電話がかかってくるだけ。 こっちからかけたことない」
「それで若い男がいやになって、妻のいる実業家と付き合ったのか?」
「は?」
  予想もしなかった峻の言葉に、美鈴は口がぽかんと開いてしまった。

 

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