表紙
幸福の条件 6



「何言い出すの?」
「とぼけるなよ。 3千万もするマンションを赤の他人が買ってくれるか?」

 美鈴はしびれた頭のまま峻を見返した。 それからようやく悟った。 この人は父のことを……
  とたんに美鈴の胸に苦い笑いがこみ上げてきた。 そう勘繰られて当然だったのだ。 なのに今までまったく考えてもみなかった。 世間知らずという以上の自分の間抜けぶりに、美鈴はただあきれてしまった。
  そうか、そうだったのか…… 工事が終わったばかりのあのマンションで、峻が不意に抱こうとした理由が、これでわかった。 そこまで安く見られていたんだ、と思いながら、美鈴は自分を抑えて静かに言った。
「帰って」
  ためらってから、峻が言った。
「この絵、くれないか?」
  間髪を入れず、美鈴は叫んでいた。
「いや!」
「なぜ! 別に……」
「いやだったらいや!」
  素早く絵を取り返して他の絵に重ねようとした美鈴を、峻が捕らえた。
 ぎょっとなったときはもう手後れだった。 彼の腕が美鈴の胴に巻きつき、そこで動きを止めた。

 しっかり抱きしめたまま、峻はかすれ声で言った。
「父親がいなくて苦労したんだろう? この子にも同じ思いをさせる気なのか」
「時代がちがうわ!」
「子供が親を必要とするのは、いつの時代にも同じだろう?」
  美鈴は目を閉じた。 声が皮肉な調子を帯びた。
「じゃ、親になってくれるの? 誰の子かはっきりわからなくても?」
「なる」
  あまりにもきっぱりと答えられて、美鈴はたじろいだ。
 腕を堅く回したまま、峻は言葉を継いだ。
「もう桂とは別れたんだろう? 断る理由はないはずだ。 束縛なんかしない。 君には何の損もないんだ」
  わからない…… 美鈴は黙ったまま、体を強ばらせて立っていた。 なんでそんなに結婚したがる。 理解できない……!
 

 峻はまた来ると言い残して帰っていった。 さんざん悩んだ末、美鈴は東京に電話した。 20年以上娘を放っておいた父に相談する矛盾を噛みしめながら。
  電話を受けた桂社長もそう思ったらしい。 声に後ろめたさが感じられた。
「そう…… 彼は仕事ができるらしいし、将来性もある。 受けていいんじゃないか?」
  世間の常識に沿った、無味乾燥な意見だった。 しかし、電話を置きながら美鈴は悟っていた。 かける前からこの意見を期待していた自分を。 本心では峻の元に行きたくてたまらない自分を。


 体型のことがあるし、ウェデイングドレスが似合うとも思えないので、美鈴は挙式を望まなかった。 すると峻は、さっさと婚姻届を手に入れて花嫁の欄以外はすべてきちんと記入し、アメリカまで持参してきた。 こうして二人は、あっと言う間に正式な夫婦ということになってしまった。

 峻は、そのまま日本にとんぼ返りした。 仕事がたまっているのだそうだ。
  美鈴はそのままニューヨークに住みつづけた。 だが、間もなく落ち着かなくなった。 いくらなんでも、こんな態度でいいのだろうか。 峻は洋介ではなかった。 いったんは見捨てた彼女をちゃんと拾いに来た。 なぜかは知らないけれど。
  本当に朝倉峻は不思議な男だった。 正式に結婚したのに、発表はしていない。 美鈴を呼び戻そうとはしないし、誰にも紹介しない。 それでいて、週に一度は電話をかけてきて、体を気遣ってくれる。
 これじゃ得したのはこっちだけじゃないか。 芸術家は変人。 世間の義理や人情と無縁でいい。 そういうふうに割り切っていいのだろうか。 自分にも、妻としての義務と責任があるのではないだろうか。


 子供はすでに8ヶ月になっていた。 大きなおなかで飛行機に乗ると、周りが優しくしてくれるので、美鈴はちょっと驚いた。 そんな危険なことをしているのかと不安になるほどだ。 ひとり暮らしをしているし、『夫』に頼る気持ちをまったくといっていいほど持っていないので、美鈴は峻に到着を知らせて迎えに来てもらおうと考えつかなかったのだ。
 
 さいわい、乗り物の中で気分が悪くなることもなく、美鈴は無事に東京に着いた。 さすがに自分のマンションを掃除するまでの元気はなく、とりあえずホテルに投宿し、早めに夕食を取ってから、峻が住んでいるはずのマンションに向かった。

 結婚を機に、峻は親の家を出ていた。 口には出さないが、相当引き止められたらしい。 しかし一人住まいは快適らしく、ときどき電話で話す内容はいきいきしていた。

 一応渡されていたカードキーで中に入り、ベルを鳴らすと、やがてドアが開いて、ライトブルーのゆったりしたシャツ姿の峻が姿を現した。 突然の訪問に、いつになく落ち着かない様子で、ノブを握ったまま戸口に立っていた。 入れとも言わない。
「どうした。 そんな体で急に帰ってきて、何かあった?」
  美鈴はいくらかむっとなった。 確かに何も言わずに訪ねてきたとはいえ、露骨に迷惑そうな態度をされてはおもしろくない。
「これからのことを話したいと思って。 中に入れてくれる?」
  峻はためらった。 そこで美鈴ははっと思い当たった。
「あ……誰かいるの? 悪かったわ」
  向きを変えた美鈴を見て、峻は思わず大声になった。
「ちがうよ!」
  しかたなく、彼はドアから後ろに引っ込んで道をあけた。
「どうぞ」
  居心地の悪い気分で玄関を通り、広いリビングに入った瞬間、目のくらむようなショックで、美鈴は動けなくなった。

  趣味のいい部屋だ。 特に変わった点があるわけではない。 ただひとつを除いては。
  その20畳ほどの部屋の壁には、さまざまな大きさの絵がずらっと飾られていた。 すべて美鈴には思い出のある、珠玉のようになつかしい絵が……!

  美鈴は部屋の入口に立ち尽くしていた。 目の前がヴェールをかけたようにかすみ、胸がどくどくと音を立てて上下した。
  15枚の絵。 美鈴の生活を2年にわたって支え、夢を現実に変えてくれた絵。
  よろめきながら振り向くと、美鈴は涙でいっぱいになった眼で、懸命に峻を探した。 彼は玄関に通じる廊下に立ち、いたずらを見つかった小学生のようにぎこちなくそっぽを向いていた。
  美鈴は泳ぐような足取りで彼に近寄った。 そして、何も言わずに顔を肩に押し当て、両腕で彼を抱いた。 やがて彼の腕がゆっくり抱き返すのが感じられた。
  涙にしわがれ、ほとんど声にならない声で、美鈴はささやいた。
「ごめんね……ごめんね、素直じゃなくて…… どうしても言えなかった。 でも、ほんとはずっと好きだった……」
  峻の体が、不意に美鈴の腕の中で熱くなった。 広い胸を額でぐいぐい押しながら、美鈴は息も継がずに続けた。
「他にもちゃんと話さなきゃいけないことがあったの。 桂弘也はパトロンじゃなくて、実の父なの。 今まで放っておいた罪滅ぼしのつもりで、マンション買ってくれたのよ」
  峻は、しばらく無言で呼吸していた。
  それからぎゅっと美鈴を抱きよせてリビングに入り、ソファーにそっと座らせた。
「俺も全然素直じゃなかった。 ちゃんと言うべきだった。 好きです、結婚してくださいって」
  美鈴は息が止まりそうになった。 本当に止まりかけて喉がつまり、しゃっくりが出はじめたので、峻が背中を軽く叩いてくれた。
「小原さんとは大学の先輩後輩で、たまに画廊に行って、気に入ったリトグラフ〔=版画〕を買ってたんだ。 4年前、リトグラフのい出物があるからと電話もらって買いに行った。 でも君の絵が目に入って、なんかすごくいいなと思って、そっちにしたんだ。
  小原さんたちに口止めしたのは、描いたのが若い女性と聞いて、絵だけのつながりにしたかったから。 あの時分、あこがれてた先輩の女の人に仕事の上で裏切られてね、ちょっと女性不信になってて」
  横から腕を回して、峻は美鈴を肩にもたれさせた。
「君が絵を買った人のことを知りたがってたと聞いて、内緒にしてもらってよかったと思った。 でも君が急に絵を描かなくなったから、心配になって様子を見に行ったんだ。 すごく君の絵が好きだったから。 ほら、公園でサンドイッチ食べたときだよ」
  覚えてるよ、よく、と美鈴は心の中でつぶやいた。
「会って驚いた。 全然想像とちがったから。 思わず話しかけちゃったのは、そのためだ」
「どんな第一印象だった?」
  美鈴が小声で訊くと、峻は照れくさそうに天井を見上げた。
「ちょっとぼっとしてて、要領が悪そうだったな」
  美鈴は笑い出した。
「そのとおりだ!」
「そういうところがいいんだ。 自然体のところがさ」
  美鈴は頭を回して、顔を峻の腕に押し当てた。
「私に『飛翔の夏』を返してくれたの、峻だったんだ。 わざわざ審査員に絵を見せて、盗作を防いでくれたのね」
  峻は赤くなった。
「あんなの許せないよ。 君の絵を横取りするなんて」
「ありがとう。 あれで生き返ったの。 おおげさじゃなく。
 ずっとお礼を言いたかった。 父がしてくれたのかなと思ってたんだけど」
  美鈴は眼を開いて、峻の手をやわらかく握った。
「峻のほうがはるかにいい」
  あいている手を伸ばして、峻は美鈴の髪に触れ、愛しそうに撫でた。
「いつも君を気にしてた。 パターソン賞を取ったと聞いたときは、ひとりでシャンパン抜いて祝った。 日本に帰ってきたと知って、会いたくて我慢できなくなって、小原さんに頼み込んでパーティーに連れてきてもらったんだ」
  激しい幸福感に包まれて、美鈴は彼の頬にキスした。
「すごく描きたくなった。 あなたと、それに赤ちゃんの絵!」

――完――






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