表紙
幸福の条件 4


 膝が痛い……

  美鈴は、片方だけ自由になる左腕を精いっぱい伸ばして懸命に探り、間もなく見つけた。 それは、朝一番に置いたイーゼルの脚……
  倒れかかってきたイーゼルの角に直撃されて、峻はウッと呻き、背中に手を当てた。
  ごつごつした岩のように覆いかぶさっていた男の体が一瞬ゆるんだ。 その機を逃さず、美鈴は力いっぱい峻の胸を突きとばして体を回し、彼の下から転がり出た。
  フローリングの床に斜め座りして、肩で激しく息をつきながら、美鈴は枯れた声でささやいた。
「こういうことはしない人だと思ってた」
  峻の眼がまっすぐ見つめ返してきた。 やましさも後悔も感じられない、宵闇色の眼――
「レイが始めたことだ」
「レイ?」
  こんなとき不意になれなれしく呼ばれて、美鈴は眉をひそめた。
「そう呼んでくれって言っただろう? 男と二人きりで部屋にいて、無防備に背中を向けて外を眺めているなんて、誘ってるとしか思えないよ」
  そんなものなの……? 美鈴はかすかに目まいを感じた。 そして気付いた。 驚いているのは抱きつかれたことじゃない。 彼が自分に抱きつく気になったことなんだ。
  なんだか自信がなくなってきた。 人を見る目にも、自分にも。 美鈴は横目を使って、峻を窺がうように眺めた。
「何がしたいの?」
  フッ、と峻が笑うのが聞こえた。 面白くなさそうな、冷たい笑いだった。
「決まってるだろう? 今やろうとしたことさ」
  だからなぜ? 面と向かって訊いてみたかった。 ねえ、選び放題のあなたが、なぜ私に手を出すの?
  美鈴がたどりついた結論は、好奇心、だった。 昔からよく、変わっていると言われた。 芸術家なんて朝倉峻には珍獣の一種なのだろう。 風変わりだから刺激が強いのだ。
  そのとき、突然思った。 『ごっこ』なら、そう、『恋愛ごっこ』なら、やれるかもしれない。
  膝を合わせて座りなおすと、美鈴は言った。
「いいよ」
  峻は少しの間、無反応だった。 硬い表情は変わらないし、体のどこも動かない。 まったくぴくりともしなかった。
  それからつぶやいた。
「いいのか……」
  美鈴はうなずいた。
「付き合う。 ただし」
「ただし?」
  小さく峻の口がよれた。 白い歯がかすかに見えた。
「余計なのは、なし。 気を遣ったり、無理にやさしくしたりしないで。 そういう歯が浮くようなの、だめなんだ」
  峻の視線が横に動いた。 明らかにとまどっている。
「どういうこと?」
「友達でいいっていうこと」
「遊び友達?」
  また峻の口が曲がった。 バカにされてる、と感じながらも、美鈴は言い方を変えなかった。 もう人と深くかかわるのは沢山だ。 相手の欲しいものを与え、自分の望むひとときの安らぎを手に入れる。 そのどこが悪いんだ。
  床に長い脚をいったん伸ばし、それからぐっと折り曲げて、峻は身軽に立ち上がった。 そして、美鈴に手を差し出した。
「わかった。 今夜、時間取れる? かっこいいホテルに案内するよ」

 ホテルだけでなく、峻はいろんなところに美鈴を連れ出した。 ミュージカル劇場、映画館、静かで落ち着くバー、定番デートスポットの海浜公園にまで。
  思えばこういうデートなんて一度もしたことなかったなあ、と美鈴はその度に思った。 美術大学に入って間もなく洋介と付き合いはじめ、すぐに彼が家に転がりこんできて居座ってしまい、夫婦同然に5年間を過ごした。 遠出どころか近くの公園に遊びに行ったこともない。 仲間と共に居酒屋でたむろするのがせいぜいだった。
 峻は洋介とちがい、遊ばせ上手だった。 接待させたらさぞすごいだろうと思わせる腕前だ。 約束を守って、無駄なお世辞など言わず、話したいときには話し、そうでないときには黙っているのに、美鈴は気詰まりを感じなかった。
  これは珍しいことだった。 気さくでやさしい画廊店主の小原にさえ、美鈴は気を遣ってしまう。 半時間もそばにいるとくたびれて、逃げ出したくなる。 だが、峻といると違った。


  やたらに喉がかわいたので、美鈴は峻を起こさないようにそっとベッドから抜け出し、備え付けの冷蔵庫に向かった。
  缶ビールを取り出して飲んでいると、視線の先に動くものが映った。 白っぽい小さなかたまりが、大きな一枚ガラスの向こうにゆっくりと舞い落ちてくる。 やがてかたまりは数を増し、黒スクリーンの上の白い水玉模様のように、そろって移動しはじめた。

  雪だ……

  横浜で11月に雪が降るのは珍しかった。 しかも、うっすらとベランダに積もるのは。
  美鈴は暖房の利いた部屋で冷たいビールを飲みながら椅子に座り、一時間以上外に見とれていた。
  やがて雪は止み、雲が切れて月が顔をのぞかせた。
  白い天然のカーペットに青ざめた光が当たった。 月光の照り返しが部屋に入り、ちょうど寝返りを打った峻をやわらかく包んだ。
  裸の肩を毛布からのぞかせ、いくらかうつむいて眠る峻は無防備だった。 整った鼻筋の影が、シーツに長く延びている。 不意に美鈴は椅子から体を起こした。 胸が次第にわくわくしてきた。
  いいな、このポーズ。 この角度。 スケッチ、スケッチ、と……
  紙がなかったので、たまたまバッグに入っていた封筒の裏に、アイブロウペンシルを鉛筆の代用にして、美鈴は描きはじめた。 大体のデッサンさえしておけば、後は家で描きなおして色をつけられる。 夢中になって、美鈴は15分ばかり手を動かしつづけた。


 年が明けて、商工会議所の恒例新年会が開かれた。 父と共に招かれた峻は、若手の常として、一歩下がったところで大物たちに控えめに挨拶していた。
  会が始まって20分ほどしたころ、ひとりの恰幅のいい紳士がグラスを片手に近づいてくるのが視野に入った。 峻の目が鷹のように光った。
「朝倉峻君だね。 桂というものです」
  声は明るいが、表情は笑っていなかった。 黙ったまま、峻は軽く頭を下げた。
「思った以上に二枚目だ。 もてて困るでしょう」
「とんでもないです」
「僕も君のように美男だったら、顔で仕事が取れたかもしれないな」
  峻は瞬きせずに、じっと桂社長を見返した。 桂は苦笑に近いものを浮かべ、ぽつんと言った。
「いや、これは失礼」
  そばのテーブルにグラスを置いて、桂はふたたび顔を上げた。
「冗談のつもりだったが、ちょっと悪趣味でした。 ただ、一言君に言いたくてね。 芸術家はガラス細工のようにもろいところがある。 気持ちの安定が仕事には必要だ。 遊び相手にはしないでくれ」
  さりげなく去っていく後ろ姿を、峻は少しの間目で追った。


 連絡が来なくなって一週間になる。 いつも決まって電話がかかってきた金曜の夜さえ無視されて、美鈴は、峻を失ったことをはっきりと悟った。
  初めから持っていたわけじゃない。 欲しがりもしなかった。 それなのに、このとてつもない胸の痛さは何なんだろう。
  美鈴は泳ぐように仕事部屋に行き、イーゼルに新しいカンバスを置いた。 こういうときは常に絵の助けを借りる。 力が絵の具のチューブから沸いてくるのだ。 いつもそうだった。
  さて、と…… 美鈴の手が止まった。 指が鉤型になったまま、動かなくなった。

  かけない……

  アイデアが浮かんでこない。 頭の中が真っ白だ。 目の前のカンパスのように、まったくの空白になっていた。
 

 美鈴は外にさまよい出た。 どこをどう歩いているのか、しばらく自覚がなかった。
  やがて気がつくと、公園にいた。 4年近く前にツナギを着て、看板描きのアルバイトをしていた店の近く。 はじめて峻と出合った場所だった。
  偶然目に留まったベンチに腰をおろすと、頬に涙が伝うのが感じられた。
  やっとわかった。
  なぜ絵が描けなくなったかじゃなく、なぜあのとき、描けるようになったか。

  ずっと自分に嘘をついてきた。 この公園で初めて会ったときから、惹かれていた。 だからこそ、その晩不意に絵筆を握れたのだ。 彼がいたから。 彼が力をくれたから。
 失わないためには、最初から持たないのが一番だ、といつも心が囁いていた。 ずっとその声のとりこになっていた。 今の今まで。
  そう気付いたとたん、美鈴は走り出した。 彼の勤めるビルはここからそう遠くない。 だからあの日、たまたま公園に来て、出会うことができたのだ。
 会って言わなきゃ。 大切に思っていたことを。 たとえその場で振られても、言うだけは言ってみたい…… 美鈴は熱にうかされていた。 アメリカでの成功、そして日本に帰ってきてからの活躍、すべて彼がいたためなんだから!
  しかし、幸運は美鈴を待っていてはくれなかった。 受け付けの美人は美鈴の問を受けて電話で確認してから、気の毒そうに答えた。
「副部長は出張中で、しばらく戻らないそうです」
  せきこんで美鈴は尋ねた。
「どこへ行かれたんですか? 明日までは仕事がないので、私のほうから行きます」
  受け付け嬢は一瞬はげしく瞬きした。 困ったその顔を見て、美鈴は背中をぐっと突かれたような気分を味わった。
  居留守なんだ……
「あの……」
  取り繕おうとする受け付けの娘を、美鈴は低く遮った。
「わかりました。 お手数おかけしました」
 
 
  手紙を書こうと思ったが、根気が続かなかった。 メールを打つのはもっとつらい。 開いてくれない可能性が高いから。
  まさか門前払いをくわされるとは思わなかった。 なにかよほど気に触ることを言ったりしたりしたんだろうか。 思い返す気力さえないままに、美鈴はぼうっと座っていた。

  その夜、あることに思い当たらなかったら、美鈴は本当に危なかった。 部屋は7階だから、ベランダからちょっと身を乗り出せばこの世から逃れられる。 しかし、天使が彼女を救った。
  羽を生やして窓から入ってきたわけではない。 体の中にひっそり息づいていたのだ。 それを確かめるために、美鈴は薬局に行って妊娠検査薬を買ってきた。 そして、事実を知った。

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