表紙
幸福の条件 3



 まだベルが取り付けられたままで、ピンホーンと軽い音を立てたので、美鈴は何気なくドアを開いた。
  微笑んでいる朝倉を見つけたとき、ノブにかけた手が一瞬止まった。
「あ……」
「ご依頼、ありがとうございました」
  本当におどろいて、美鈴はうまく答えられなくなった。
「あれ……こんな小さな仕事に、朝倉さんが?」
「こんなって、全面改装だから5百万規模ですよ」
  耳慣れない敬語を聞いて、美鈴は背中がかゆくなった。
「やめましょうよ、丁寧語は」
「それなら、中に入れてくれる?」
  入口に立ちふさがっている自分に気付いて、美鈴はあわてて体を斜めにした。
「どうぞ」
「失礼します」
  やっぱり敬語になって、朝倉はがらんとした内部に足を踏み入れた。
  6畳、5畳半、それにリビング10畳の間取りを念入りに見て回りながら、朝倉はいろいろと尋ねた。
「ここの壁はベージュで?」
「ええ。 落ち着いた空間にしたいので。 こっちは北側だからちょっとしたアトリエに」
「ちょっとした?」
「そのつもり」
  美鈴は少し顔をほころばせた。
「やっぱり絵は今住んでる家のほうが落ち着いて描ける。 ここはお客さんが来るときとか、夜に都心から帰るのがいやになったときに使うつもり」
「ひとりで2軒か。 いいなあ」
  まんざらお世辞でもなさそうに、朝倉がつぶやいた。
「僕なんかこの年で親と同居だから、ちょっとうらやましい」
「そう?」
  まともに青年の顔を見て、美鈴は静かに訊いた。
「お帰りって言ってくれる人がいるのって、いいよね」
  朝倉峻の瞳が揺れ、床に視線が流れた。

  ていねいに注文を聞いてくれたので、予定時間を30分以上過ぎて、昼どきになった。 朝倉が誘って、二人は近場で食事をすることにした。
  道を歩きながら、美鈴が先手を取って言った。
「安くておいしい店知ってるけど、そこでいい? ちょっと疲れてるから、遠くへ行きたくないんだ」
「もちろん。 きみはおいしいの見つけるのがうまいから、いいよ」
「私が?」
  首をかしげた美鈴に、峻はとぼけた表情を見せた。
「ほらさ、最初に会ったときのハムサンド。 君はカツサンドだったっけ」
「ああ、あれ。 あのときはむしろ質より量だった」
「そうか。 若かったもんな」
  25と28は爺婆かい、と突っ込みを入れそうになって、美鈴は思い出した。 峻の仇名はたしか、峻ジイ……
  5月の空は高い。 特にその日は文字通り抜けるように青く広がっていた。 雲がまったくない空間を見上げながら、峻がぽつりと言った。
「俺さ」
  僕が俺になった。 それだけ気を許した証だった。
「最近、なんか、ただよってる感じなんだ。 足が地面から離れちゃってるような」
  そういう現実感のなさは、美鈴もときどき味わうことがあった。
「うん」
「生きがいがあるって、どう?」
  不意に訊かれて、美鈴は立ち止まりそうになった。
「私?」
「そう、江口さん、って何だか遠い言い方だな。 美鈴さん……どう?」
「友達はみんなレイって呼ぶから、よかったら」
「よかったら?」
  峻は明るい声を立てて笑った。
「勧めてくれるの?」
「うん、まあ、どうかなと思って」
「じゃ俺のことも峻って呼んでね」
「峻……さん? 言いにくいな」
「呼び捨てがいい」
「えー」
  ちょっと無理だと美鈴は思った。 同級生は男子の方が多く、呼び捨てにされるのは慣れている。 当然こっちも男子のほとんどを敬称略で呼んでいたが、彼らはほとんどがモシャモシャのクシャクシャで、大きな犬みたいなものだったから気にならなかった。 こんな青年紳士(オペラ座の怪人的になつかしい形容だが)にふさわしいとは、なかなか思えなかった。
「生きがいねえ」
  美鈴はさっきの話題を思い出してつぶやいた。
「私に生きがいがあるって、どうして?」
  不思議そうに、峻は彼女の曇った額をのぞきこんだ。
「だって、好きなことで認められたじゃないか。 凄いことだよ。 絵のうまい人間はたくさんいるが、一筋にやれるのはほんの少し。 まして認められるのは……」
「運もある」
  美鈴はそっと遮った。
「たまたま時代の流れに乗ったとか」
「ただ乗ったら押し流されてっちゃうよ」
  峻は笑った。 なんだか寂しそうに。
  そうこうしているうちに、ふたりは目当ての食堂にたどり着いた。

 
  月の終わりにドイツ製のカーテン生地が届いた。 仕立てて取り付ければ、工事は完成だ。 買ってくれた人への義務として、美鈴は父を、ほぼ完成したマンションに招待した。
  桂社長はすぐにやって来た。 そして、白を基調にすっきりとまとまった部屋部屋を、珍しそうに見て回った。
「新築みたいだな」
「柱がしっかりしてるから直しがいがあるって、工事の担当者が言ってました」
  妙な表情で、桂が窓辺から振り向いた。
「その敬語はそろそろ止めないか? 親子なんだから」
  複雑な気持ちだったが、美鈴は努力した。
「そう……ね。 ええと、ここをアトリエにするの」
「北だろう? 日が入らなくて寒いぞ」
「その方がいいの。 光線で色の具合が変わらなくて」
「そんなもんか」
  絵は何も知らず、まったく興味がなかったらしい。
『いい絵をたくさん見なさい。 頭の栄養は眼から採るのよ』
  母の言葉がよみがえってきた。 私はやっぱりお母さんの子――改めて美鈴は母が懐かしく思えた。

  まだ家具は半分ぐらいしか入れていない。 小さなスツールにぎこちなく座ってアールグレーを飲んだ後、桂は娘を誘った。
「Mって料理屋、行ったことあるか?」
  美鈴は首を横に振った。 名の通った高級懐石の店だ。 コースでウン万円だから、普通人は行かないし、行けない。
「あさって時間が取れるなら昼食予約しとくが、どうだ?」
  しかたなく、美鈴はうなずいた。 さぞ気詰まりだろうが、このきれいなマンションをくれたのだから、そのぐらいは。
  ドアに近づきながら、桂はいぶかった。
「ここ、カードキーじゃないのか?」
「築7年だから。 でも鍵は代えてもらうの。 最新型のと」
「その方がいい。 最上階は上から狙われるっていうから、ベランダの戸締まりも気をつけて」
「ありがとう」
  廊下に出ようとして、桂は思い出したようにポケットに手を入れた。
「そうだ、これ、完成祝いのプレゼント」
  取り出したのは小さな四角いものだった。 ミニチュアの花束のようにかわいくラッピングしてある。 迷いながら、美鈴はぎこちなく手を出した。
「ここ貰った上に、プレゼントなんて……」
「受け取ってほしいな」
  冗談ぽい口調だが、目は笑っていなかった。
「これまで放っておいたお詫び」
  初めて聞いた謝罪。 美鈴の心に小さな灯が点った。

 
 翌日、カーテンが入り、新しい鍵が取り付けられた。 最後の仕上げに来た峻は、てきぱきと仕事を進め、一時間しないうちに職人たちをみな返してしまった。
  5時過ぎだった。 東と北を向いた部屋だから、太陽が落ちていくところは見えない。 ただ外の光が次第に透明から赤味を帯びてきたのは感じ取れた。
  ベランダに通じる扉は引き戸ではなく、屏風のように折り畳み式になっていた。 そこを少し開けて、弱い風に顔をなぶらせていた美鈴は、背後に峻が立ったのを感じて、振り向こうとした。

  そのとたん、引き倒された。

表紙目次前頁次頁
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送