表紙
―氷の城―20

 男がアストリッドを誘導していったのは、更に城の奥にある礼拝堂だった。 三段の石段を上がり、中へ入って扉を閉じると、彼は深く息をつき、それからひざまずいて十字を切った。
 アストリッドも彼にならって膝を床に降ろし、頭を垂れた。 ここはデクスター家代々の礼拝堂で、神聖な場所だった。
 うつむいて床を見つめたまま、アストリッドは言葉を選り出した。
「あの……ありがとうございました。 私はアストリッド・デラメアといいます。 北の在ワイルストンの小領主の娘ですが、わけあってあの塔にいて、さきほど不意に、茶色の服を着た盗賊に襲われました」
 盗賊というより、暗殺者とはっきり言ったほうがよかっただろうか。 でもそれでは、暗殺されるだけの事情があることがわかってしまう。 アストリッドはできるだけ、その事情を知られたくなかった。 特にこの物静かな若者には……

 男の体がわずかに動いた。 右肩が上がり、しっかりした強そうな指が、腰に巻いたベルトからゆっくりと短剣を抜き出した。
 ぎょっとなったアストリッドの前に、その短剣は鞘ごと置かれた。 そして、やや重いが清涼感のある声が発せられた。
「護身用にこれを持っていなさい」

 アストリッドの膝が、不意に力を失った。 前の床がいきなりぎらついた光を放ち、眼の奥が刺されたような激痛を発した。
 覚えのある声……あまりにも聞き慣れた声……!
 立て膝の姿勢を崩さぬまま、男は大事が露見したときのやや投げやりな口調で続けた。
「そうだ。 君をあの塔に入れ、通っていたのは、このわたしだ」


 アストリッドは、吹き飛ばされたようになった。 確かに石の床に座っているのに、塔の窓から投げ落とされ、果てしない渦に吸い込まれていくような、異様な感覚にしびれた。
 かたくなに前を見つめたまま、男はゆっくりと腿に両手を置いた。
「わたしは父の代役だった。 すでに半年以上も前から、父の目は何も見ず、耳は何も聞こうとしなかった。
 だが、わたしには見えた。 セント・アンドリューでも、謁見室のマントの陰からも……」
 背中が耐えきれずに揺れ、顔を片手が覆った。
「わたしは罪深い。 眠れぬ夜など、父の死が早かれと願いさえした。 晴れてこの城を継げば、君を女王のように着飾らせ、あふれるほどの宝石を手にして迎えに行くと心に決め、その日のためにあらゆる用心をした。 君にも不自由な思いをさせた」
 ごく僅かずつ、アストリッドの心を覆っていた氷が融けはじめた。 淡い春の光が胸の奥まで射し込み、小さなぬくもりを次第に広げていった。
 冷たい床に脚をかじかませながらも、アストリッドはようやくかすかな声を発することができた。
「それでは……あなたはバートラム様……?」
「そうだ」
 横を向きかけたが、完全に向き直ることはできず、バートラムはずしりとした重荷に耐えるように目を固く閉じた。
「許してくれとは言わない。 わたしは父の裁定を反古〔ほご〕にすることはできなかったが、君達一族のためにできるだけの手は打った。 君はすべてを承知でこの城に残り、城主の訪れを待った」
「ええ、ええ、そうです」
 息が苦しくなってきたので、アストリッドは性急に相槌を打った。 女王のような服も山ほどの宝石も実感がなかった。 ただ、他ならぬバートラムの知恵でワイルストンの森が守られたこと、彼が強く自分を望んだことだけを考えていた。




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