表紙
―氷の城―2

 アストリッドは瞬時に飛びすさった。 気持ちの荒んだ無宿者だと、物も言わずにいきなり切りつけてくることがあるからだ。
 狼のような相手は、すっくと立ち上がった。 マントにくるまって寝ていたらしい。 彼が無言で部屋の隅に歩き去るとき、胸のバックルがきらりと光った。
 少しして、アストリッドはようやく気付いた。 先客の男は彼女のために場所をあけてくれたのだ。 礼を言わねば、と思ったが、相手の重い沈黙に恐れをなして、口がどうしても開かなかった。
 後から入ってきた兄が、何も気付かずに胴間声で言った。
「さっさと入れ。 その寝台を使え」
 寝台といっても、浅い木の箱から片側だけ取ったようなもので、ごつごつと寝心地は悪かった。 それでもアストリッドは素直に板に上り、毛皮襟のマントを体に巻きつけて目を閉じた。 大きな石造りの暖炉に燃える火は、真っ赤なケシの花のように揺らぎ、弱い光とかすかな火の粉を振り撒いていた。


 明け方、避難部屋の一同は、建物を巡って吹き荒れる烈風の音で目を覚ました。
「嵐のようだ」
 窓枠に当たって砕けるつららを眺めて、アルマンゾがいまいましげに舌打ちした。
「一刻も早くフォートナイア城に着きたいのに。 何としてもロングヴィル一族の鼻を明かさねば」
「この風では向こうも動けないわ」
 しなやかに寝台からすべり降りたアストリッドは、金色の巻き毛を揺らしながら兄と並び、雪が横殴りに流れている戸外に見入った。
「ほら、あそこに大きく渦巻いている。 まるで白い怪物が立ち上がったよう」
「縁起の悪いことを!」
 にべもなく言い捨てると、アルマンゾはいらいらと窓の前を歩き回った。 その視線が、暖炉のある位置より更に奥にひっそりと座っている先客に向いた。
 その丈高い男につかつかと歩み寄り、アルマンゾは単刀直入に尋ねた。
「このあたりの方かな?」
 男はうなずいた。 茶色の髪を耳の上あたりで刈り、まっすぐな眉毛の下に黒っぽい眼が炯炯〔けいけい〕と光って、まさに偉丈夫だった。 年の頃は二十三、四か。
 アルマンゾは問いを重ねた。
「ではデクスターの殿の正確な容態をご存じではないか? 人づてに耳にした話では、殿は十字軍で出陣した折に死海のほとりで敵に囲まれ、鼻をそがれた上に火矢を射かけられ、火傷で片目を失ったとか。 それはまことの話なのか?」
 男は黙ったままだった。 ぴくりとも動かないので気を悪くしたのかと思い、アルマンゾはすぐに言葉を続けた。
「いや、名誉の負傷をとやかく言うつもりはないのだ。 お体の具合がよほど悪いと、面会はできないのではないかと心配で」
 そのとき、男がようやく手を上げた。 ゆっくりとその手を口に持っていって、人差し指と中指の二本で押えてみせた。
 すぐにアルマンゾは悟った。
「なるほど。 沈黙の誓いを立てておられるのだな。
 それなら声に出さずともよい。 首を縦か横に振ってもらえれば。 どうかな? デクスター様は、領地を治めることができるほど体力を回復なさっているかね?」
 男は指をおろすと、かすかにうなずいてみせた。




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