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心の刻印 16


   明け方近くなって、狭いベッドに二人で寝る息苦しさに、トリシーは目を覚ました。
トリシーとメグが、そしてロジャーとクレイトンが入れ替わったような夜だった。 これも恋の一種なんだろうか。 それとも単に欲望の果て…? 自分でもはっきりとしないままに、渇いた喉をうるおそうとして起き上がったトリシーは、不意に気づいて思わず小声で叫んでしまった。
「トミー!」
忘れ切っていたわけではない。 ロジャーが離してくれなかっただけだが、結果としてトミーとの誓いを破ったのは事実だった。
マントルピースに置いてある時計を覗き込むと、蔦模様の針は4時20分を指していた。
 日が上る前にショーソン家に着けば、トミーは許してくれるかもしれない。 大急ぎで靴を履きなおし、衣擦れの音をできるだけ立てないようにして服を着ると、トリシーは忍び足で部屋を出て階段を下り、納屋から自転車を引き出した。

ひんやりした空気の中を、トリシーは死に物狂いでペダルをこいで走った。 村の住民は早起きだが、さすがに日の出前のこの時間には、人影はどこにも見当たらなかった。
柵の前で転がるように降りると、案の定、中からか細い泣き声が聞こえてきた。 大慌てでトリシーは裏口の戸を引き開け、中に飛び込んで二階に駆け上がった。
子供用のベッドにはバーサ夫人がトミーを抱きかかえて座っていた。 ほとほと困り果てた様子なので、トリシーは平身低頭しながら幼児を受け取った。
「すみません。 どうしても今まで出てこられなくて」
「あの家に不幸があったから大変だったでしょうけど、うちも一晩大騒動だったのよ。 全然寝てくれなくてね、ずっとこの有様」
「ご迷惑をかけてしまって」
トミーはトリシーを見るとすぐ泣きやんだが、すっかりすねてしまっていて、小さな拳で打ちかかってきた。
「嘘つき! 帰ってくるって言ったじゃない!」
「だから帰ってきたでしょう? 遅れたけど一生懸命自転車をこいできたのよ。 ほら、こんなに心臓がどきどきしてる」
トミーの手を取って、トリシーは自分の胸に当てた。 トミーは体を倒して寄りかかり、義母の心臓の鼓動を聞いた。
「ドンドン、ドンドンって言ってる」
「そうでしょう? 雷があばれてるみたいな音でしょう?」
そのとき、下で物音がした。 降りていったバーサが誰かと怒鳴りあっている。 こんな朝っぱらから、とトリシーが不審に思っていると、乱れた足音が階段を駆け上がってきた。

ドアが物凄い勢いで開いたので、トリシーはとっさにトミーを抱いて両腕で庇った。
飛び込んできたのは、ロジャーだった。 その手に握りしめている物を見て、トリシーは驚きあきれて言葉も出なかった。
彼が掴んでいるのは、黒光りした拳銃だった。

「いったい…いったい何してるの!」
やっと話せるようになると、トリシーは開口一番に怒鳴った。  ロジャーは全身をぶるっと震わせ、よろめいてドアに寄りかかった。
「男は…男はどこだ」
「男?!」
「言ったじゃないか! 名前を呼んだぞ!」
「どうかしてる!」
「白を切る気か! じゃ、はっきり訊いてやる。 トミーとはどこのどいつだ!」

トリシーはゆっくり立ち上がった。 一晩共に過ごしただけで、まるで亭主のように嫉妬する権利が、この男にあるというのか!
できるだけ声を落ち着けて、トリシーは一言一言区切って口にした。
「トミーは、この子よ。 トマシーナ・エリス。 メグが自分の命に代えて産んだ、アランの一人娘よ」


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