表紙へ行く

心の刻印 15


 何が起こったのか悟る暇もないうちに、トリシーは火のような唇を感じた。 ロジャーの強い腕が万力のように彼女を締めつけ、わずかな動きも封じた。
  2度、3度とキスは続いた。 トリシーは蜘蛛の巣に捕らえられた蝶のように、まったくなす術を知らなかった。 それほどロジャーの力は圧倒的で、物凄い迫力でトリシーを押しひしいでしまっていた。

  初め茫然としていた頭に、次第に意識が蘇ってきた。 やがて怒りがこみあげ、沸騰寸前になったところで、ようやくロジャーはいくらか腕をゆるめ、顔を離した。
  とたんにトリシーは激しく身をもがいて叫んだ。
「離しなさいよ! 何やってるのよ、ゴロツキ! 悪党!」
「金ならやるよ」
  妙に虚ろな声で、ロジャーは呟いた。
「なんなら俺の分を狙ってもいい」
「何わけのわからないこと言ってるのよ!」
「ここに残れって言ってるんだ」
  トリシーの大きなブルーグリーンの眼が、一際大きく見開かれた。
  ロジャーの喉がごくりと音を立てて鳴った。
「アランをとりこにしただけのことはある。 どうしてそんなに色っぽいんだ? ただ歩いたり笑ったりしているだけで、なぜそんなに男を引きつける?」
  アルコールと悲しみで理性が使い物にならなくなってるんだ――トリシーは体中の力を込めてもう一度身もがきしたが、ロジャーは巨木ののようにびくともしなかった。
「後悔するわよ」
  もうどうにもならない。 やけで言い返した一言に、ロジャーは辛そうな笑いで反応した。
「もうとっくにしてるさ。 君なんかこの家に入れるんじゃなかった。 そもそもアランを一人でロンドンに行かせたりしなきゃよかった。 わたしがついていれば、安っぽい見世物小屋の女なんかと知り合うはずがなかったのに」
  安っぽい女?! どこまで傲慢なんだろう、この男! かんかんになったトリシーはただ1つ自由になる武器を使った。 足だ。 2人の距離が近すぎるから勢いはつけられないが、それでもできるだけ強く、トリシーはロジャーの向こう脛を蹴りとばした。
  ウッという小さな声を発して、ロジャーは縮まった。 しかし、トリシーの反撃は逆効果で、むしろ彼の闘争心に火をつけてしまったらしかった。 いきなり身をかがめてトリシーを持ち上げると、ばたばたする彼女をものともせず、ロジャーはガラス戸を押し開けてベランダに出て、手すりにトリシーを危なっかしく乗せてしまった。
「おとなしくしろ。 ここから落とされたいか」
「ビリーにも同じことしたんでしょう! この、野蛮人!」
「あいつは地獄からわいて出た小ネズミだ。 わたしの馬に石をぶつけて落馬させようとしやがったんだ」
「それはあなたが川べりを囲って、ビリーたちを行かせようとしなかったからでしょう? あの子たちはあそこに水車を作って置いていたのよ。 嵐が来るから持ち帰りたかったのに、あなたのせいで壊れてしまったそうよ」
  大きく息を吸うと、ロジャーは怒鳴った。
「水車がなんだ! あそこの土手は崩れやすいんだ。 ダルビーの若い衆が酔っ払って落ちて死んだから、あのチビどもが同じ目に遭ったらかわいそうだと思って、鉄条網を張っただけのことじゃないか!」

  トリシーはびっくりして顔を上げた。 とたんにバランスが崩れてぐらっとなったので、あわててロジャーの上着の襟に手をかけてしがみついた。
「じゃ、そう言えばいいじゃないの。 あなたは言葉が足りなすぎるわ。 せめて看板を立てるとか……」
「あいつらに字が読めるのか?」
  ロジャーは鼻息荒くあざ笑った。
「親には読めるわ。 キャシーはそんなわからず屋じゃないし、理由がわかれば子供たちにきっと話して……」
「甘やかし放題だぞ! あのギャングどもを天使のように思ってるんだ!」
「たしかに乱暴だけど、気持ちはまっすぐな子供たちよ! ねえ、自分の子供時代を思い出して」
「わたしはあんなじゃなかった」
  ロジャーは断言した。
「体の弱いアランをいつも見守っていた。 アランはかわいかったぞ。 子供は天使というなら、アランこそ天使だった。
 母も体が弱くて、アランと同じ病気でなくなったが、毎日のようにわたしに言っていた。 あなたはお父様に似て丈夫に生まれたから、アランを助けてやって、1日でも長生きさせてやって、と。 結局丈夫な父も、馬車の事故であっさり世を去ってしまったが」
  母の遺言を、30近くなるまでロジャーは忠実に守っていたんだ。 いったいロジャーに、自分の青春はあったんだろうか――トリシーの眼に、突然まったく別のロジャーが映った。
  婚約者のクレイトンも寡黙な人だった。 本当は驚くほど優しいのに、口数が少ないのでよく誤解された。 花の盛りの21歳で若い命を散らしてしまったクレイトンの面影が、いちどきにトリシーの心を占領した。
 
  襟を掴んだ手を、トリシーはゆっくりロジャーの首に回した。 そして初めて自分から、彼の唇を求めた。


 
表紙目次前頁次頁
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送