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心の刻印 9


 ドアがかすかなきしみ音を出して開いたので、トリシーは素早く写真を手提げにすべりこませた。
  入ってきたのはナースのジャニス・モンゴメリーだった。 ジャニスはベッドの脇に膝をついたトリシーを認めると眉を寄せ、早足になって近づいてきた。
「勝手にこの部屋に入っちゃ困るわ。 アラン様を興奮させないようにとロジャー様に固く言われているんだから」
「いいんだよ、ジャニス」
  アランが静かに遮った。
「メグは例外だ。 いつでもここに入れるようにしてくれ」
「でも……」
「ロジャーには僕から言う。 君には迷惑かけないから」
「……わかりました」
  しぶしぶうなずいたものの、ジャニスはすぐ黒い背もたれつきの椅子を引っ張ってきて、アランのすぐ横に座った。 しっかり見張って、すべてをロジャーに報告するつもりらしい。
  仕方なく、トリシーは立ち上がってアランに微笑みかけた。
「じゃあね。 ゆっくり休んでね」
  親指を1本立てて、アランも微笑を返した。

  廊下に出るとすぐ、トリシーは小走りに歩き出した。 そして朝の勉強をしているフィリスの部屋に突撃した。
  鼻めがねの家庭教師、ダニエラ・ホッブスと差し向かいで、どんよりした顔でペンを走らせていたフィリスは、ドアを押し開いたトリシーと視線が合ったとたん、眼を輝かせた。 何くわぬ顔で、トリシーはよそ行きの声を出した。
「フィリスさん、ロジャー様がお呼びですよ」
「わかった」
  ぴょんと椅子から跳ね上がると、スキップしそうな足取りで、フィリスは部屋から出てきて後ろ手にドアを閉めた。 並んで廊下を歩きながら、トリシーは少女に相談を持ちかけた。
「ねえ、ロジャー・コートニーにこの屋敷を留守にしてほしいんだけど、何か手はないかしら。 半日でいいのよ」
  フィリスは口元を尖らせて少し考えていたが、階段の近くまで来て不意に立ち止まり、手を打ち合わせた。
「アランの物を、何か買ってきてもらえば? ここじゃ手に入らないもの、そうね……サッカレーの本とか」
「それいいわね」
  トリシーは声を弾ませた。
「何にする? 『虚栄の市』? それとも『ヘンリー・エズモンド』?」
  奇妙な表情で、フィリスはトリシーの眼を覗いた。
「あんな気取った作家の作品を、よく知ってるわね」
  しまった…… できるだけ平静を装って、トリシーは答えた。
「サーカスの団長がインテリ崩れでね、いろいろ本の話をしてたのよ」
「ふーん」
  信じたのか信じなかったのかわからない口調であいまいにうなずいた後、フィリスはくすりと笑った。
「アランが気に入ったのはね、『薔薇と指輪』よ。 童話だからって、ロジャーが買うの許してくれて、私が持ってた本。 でもあれ、よく読むと相当ワイセツよね」
  たしかに裏読みすればそうだ。 ませた子だなあと思いつつ、トリシーはうっかり言ってしまった。
「リアルに描けば発禁だから」
  ふたりは顔を見合わせ、口に手を当てて吹き出した。 階段の手すりに寄りかかって、フィリスは苦しそうに笑いながら言った。
「やっぱりそうなんだ。 大人って、やらしい!」
「砂糖菓子のようなこと書かないだけ、サッカレーはましな方よ。 上流階級は、結婚するまで赤ちゃんは空から落ちてくると教わってるんだから」
「コウノトリが持ってくるのよね」
「本当にそうならどれだけ楽か!」
  トリシーの唇が押さえきれずに小さく痙攣した。 その怒った顔を見て、フィリスは笑うのを止め、真面目な口調で言った。
「『エズモンド』のほうがいいと思う。 ジャニスがお昼ごはんを食べに行ったら、アランと口裏あわせておくわ」
「ありがとう」
「あーあ、それまで陰気なダニーとお勉強か!」
「うまくロジャーをおびき出せたら、メイドさんたちを何人か仲間に入れて目隠し鬼して遊びましょう」
  たちまちフィリスの顔がぱっと輝いた。


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