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心の刻印 3


 不意にトリシーの胸が迫った。 ロジャーが横目で睨んでいなければ、涙ぐんだかもしれない。
  これがメグの愛した人…… ずっと名前を呼びつづけていた人なんだ……

  やがてトリシーの両手が、片方ずつぐっと握りしめられた。 清潔な白いシーツは、アランの体の下でほとんど影を作っていない。 彼はすでに、羽のように軽くなってしまっていた。
  アランの余命は尽きかけていた。 だからロジャーは最後の望みを叶える気になったんだ、とトリシーは悟った。
  やがて枕の上の頭がゆっくりと動き、瞼が重そうに開いた。 湖に映る雲の影に似た淡いブルーの瞳が、焦点を定めないままトリシーの顔をさまよった。
  やがて頬にかすかな赤味が戻ってきた。 眼にも光が宿った。 きゃしゃな青年は指を動かし、それから思いがけない力で右腕を持ち上げて、手を差し伸べた。
「メグ……!」
  トリシーはよろめきながら彼に近づき、下からその手を支えるように持った。
「アラン」
「随分長くいなかったね」
  苦しげに胸を波打たせながら、それでもアランは嬉しそうに言った。
「今度は長かったね。 ずっと待ってたんだよ。 君がここに入ってきて、外で何があったか話してくれるのを」
  もう我慢できなかった。 トリシーは必死で瞬きしたが、こらえきれない涙が頬を伝い落ちた。
「いろんなことがあったわよ。 私ね、自転車を買ったの。 うんと練習して乗れるようになったのよ。 でも何回も転んだわ。 痛いから、肘とお尻にクッション縛ってやってたの。 ほら、歯痛のとき顔に巻くみたいに、ぐるぐるってね」
  その光景を想像してみて、アランは笑ったが、すぐ咳き込んでしまった。
  とたんにロジャーが強い力でトリシーの腕を掴んだ。 ぐいぐい引っ張られていきながら、トリシーはできるだけ陽気に叫んだ。
「じゃあね! 後でまた来るわね!」
  アランは顔に微笑を残したまま、かすかにうなずいた。

  ドアから外に出たとたん、ロジャーはトリシーをどやしつけた。
「何てこと言うんだ! アランはもう何年も外に出られないんだぞ。 それを無神経にうらやましがらせて!」
「楽しそうに笑ってたわ」
  トリシーは負けずに言い返した。
「なによ、年寄りメンドリみたいに弟を羽根の下に抱え込んじゃって。 何の刺激もない人生なんて、死ぬより退屈よ」
「赤の他人に何がわかる!」
「健康そのものの鈍感男に、病人の何がわかるのよ!」
  2人は真っ向からにらみ合った。
  鼻息を荒くしたまま、ロジャーが声を下げて言った。
「しばらく見ない間に、ずいぶん強気になったな」
  トリシーはたじろいだ。 しまった、と思った。 メグはトリシーから見たら相当口が悪く思えたが、ロジャーに対しては小さくなっていたのかもしれない。
  少々トーンを下げることにした。 メグのくせを真似て口をつんと尖らせると、トリシーは口の中で呟いた。
「アランが痩せていたから、辛くてかっとしてしまったのよ」
「君のせいだ」
  ロジャーはにべもなく言った。
「君がわたしの申し出を簡単に受けて、さっさとどこかへ行ってしまったからだ」
  あきれ果てて、トリシーはロジャーの黒い眼を突き刺すように見つめ返した。 こんな勝手な理屈は、これまで聞いたこともなかった。


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