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心の刻印 2



  しかしそこで、ロジャーの顔に酷薄な影がちらついた。
「もちろん相続権は与えないよ。 それに、アランが本心から望めばの話だ」

  ネコがネズミをなぶるように――トリシーにはそういう風にしか見えなかった。 黒い大きな眼を光らせながら、ロジャーはしばらくトリシーに視線を据えていた。
  もういい加減にして! と叫び出したくなるほど見つめ続けた後で、ロジャーは徐々に目を動かし、トリシーの胸元を眺めた。 派手なピンクのボウを、さも蔑んだ様子で。
「元気そうだ。 それになかなかゴージャスだな。 もう金は使いきったのか?」
「銀行預金があるってのもいいものよ」
  できるだけ巻き舌で、トリシーは答えた。 ロジャーは片頬だけで笑った。
「まあいい。 君を探していたところだったから。 そっちからこの村に来てくれたとは有難いよ」
  探していた?! まったく予想もしていなかった展開に、トリシーはあせった。
  ロジャーはもう彼女を見ていなかった。 表を無造作に手で指して、こう言った。
「わたしは馬で来た。 君は、と、そうか自転車か。 馬に乗れるかね? どうだい?」
  言い方がいちいち気に触った。 トリシーは歯を噛みあわせたまま、押し出すように一言言った。
「乗れます」
「そうか。 じゃ、ワットに1頭借りて、すぐに来てもらおう」
「今?」
  トリシーの狼狽ぶりを、ロジャーは面白そうに眺めた。
「そう。 善は急げと言うじゃないか」

  こんなはずではなかった。 メグになり代わってこの土地に来たとき、トリシーはロジャーを脅かせないまでもうるさがらせ、無視できないようにして、最後にアランと会わせてもらう心づもりにしていた。 それが、こうあっさりと、ロジャーのほうから申し出てくるとは! 
  並んで馬を歩かせながら、トリシーは自分で意識せずに、何度もロジャーに視線を走らせた。 頑固で冷酷な男だと、メグは言ったが、保守的だとも言っていた。 だから、こんな予測のつかない態度に出る人間とは思っていなかった。 これは一筋縄ではいかないかもしれない。 トリシーの警戒心は、限界近くまで高まった。


  ガーランド(=花輪)屋敷は、名前の通り春になると一斉に咲いた蔓バラに囲まれて、夢のように美しくなるという。 今は晩秋だから、ちらほらと名残の花が残っているだけで、大部分の木は葉を落とし始め、寂しい雰囲気がただよっていた。
  門から玄関まで、ゆうに百ヤードはあった。 小道の周囲はなだらかな芝生で、ところどころに大きな楡やケヤキの木がどっしりと立っている。 おおらかな景色だった。 広大な領地の縁を彩る遠い林を見ながら、トリシーはふと考えた。 晴れて風のない日にこの庭を散歩したらどんなに気持ちがいいだろうと。
  2人が玄関に近づくと、灰色の小さな城に似た屋敷の裏手から、素早く2人の馬丁が走り出してきて、馬の手綱を受け取った。 ロジャーはひらりと鹿毛の馬から飛び降りるとトレーシーの乗った栗色の馬に近づき、両手を差し出した。 馬丁が突っ立ったままなので、トレーシーは仕方なくロジャーの腕の中に滑りおりた。
  手を離す前に、ロジャーは彼女の耳元で短く囁いた。
「金を受け取ったことをアランに話すな」
  トレーシーはごく小さくうなずいてみせた。

  短い乗馬鞭を馬丁の一人に手渡して、ロジャーは先に歩き出した。 トレーシーがためらっていると、彼は戸口のところで振り返り、厳しい口調で呼んだ。
「早く。 何ぐずぐずしてるんだ」
  命令し慣れた声…… トレーシーの表情が硬くなった。 私はこんな男の使用人じゃない。
  そっぽを向いて、トレーシーはわざとスカートの裾をはたき、上着を引っ張ってスタイルを整えた。
  いらいらした様子で、ロジャーは手招きした。
「服装なんかいい。 きちんとしてるよ。 さあ、早く!」
  それでもまるで急がずに、トレーシーはゆっくり彼に歩み寄った。 ロジャーは大きく息を吸って胸をふくらませたが、結局小言を言うのはやめて、トレーシーを先に立てて広い階段を上った。

  左に曲がって3つ目が、目的の部屋だった。 ロジャーがそっとドアを開くと、すぐに乾いた咳が中から響いてきた。 力のない、弱々しい咳だった。
  背後に長いレースのリボンを垂らした帽子姿のナースが、ロジャーを見て椅子から立ち上がった。
「ロジャー様」
  手を少し上げて、黙るように合図して、ロジャーは静かにベッドに近づいた。
  真っ白なシーツの上には、シーツと大差ない顔色をした青年が横たわっていた。 右側にある窓に顔を向けているが、目は閉じている。 掛け布団の上に置かれた手は、骨に皮が張りついたように痩せ細っていた。
「アラン」
  信じられないほど優しい声で、ロジャーが呼びかけた。
「探しあてたよ。 メグを連れてきた」


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