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国境U-1


 移民船『グリフィカ号』は、大西洋を二週間かけて渡った。
 つわりもあって、レニーは最初船に酔い、数日は辛い時間を過ごした。 だが、もう一人で耐える必要はない。 傍には常に、フリーダーがいた。

海面を見ると、船酔いはひどくなるという。 レニーも初めはそうだった。
 それでも、海は我慢して見つづける価値があった。 レニーは薄い外套の下にセーターを二枚着込んで、へさきに寄りかかり、刻々と色を変える大海原を飽きることなく眺めた。
 このなめらかな大西洋の水は、レニー達を新しい大地へ導いてくれる。 目的地で待っているものは、決して楽な生活ではないかもしれない。 しかし、安全があった。 もう森の獣のように狩りたてられることはないのだ。
 そして、未来の希望と、新しい家族をも、今のレニーは手に入れようとしていた……。

 ほとんど何でもやっているようなフリーダーは、短期間船員を経験したことがあるらしく、いくら揺れても平気だった。 そして、スペイン語の単語を並べ、通じないときは身振りをたっぷり交えて、船員たちに話しかけた。
 おかげで、メキシコについての貴重な情報が手に入った。 外国人(特にドイツ系)が暮らしやすい街はどこか、とか、職探しのコツ、給料のいいアルバイトなど。 まめに雑用を手伝いながら訊くので、船員たちは喜んで答えてくれた。

 二人のささやかな幸せに影を投げたのは、皮肉にも同じ移民仲間だった。 
 生き延びるためにやった寸借詐欺や小さな裏切りが、積み重なってフリーダーの信用を失わせていた。 賑やかに会話が弾んでいた食堂に、彼が後から入っていくと、ふっと話し声が途切れたりする。 その度にレニーは気を揉んだが、フリーダーは反応せず、よく耐えていた。
 
「人は、見たものを信じるもんさ」と、フリーダーはレニーに言った。
「俺が明るく振舞っていれば、あいつらが昔の噂を流してもそのうち消える。 それに、いい子ぶってる奴に限って、腹の中が真っ黒だったりするしな。 そのうち、悪口言ってるやつの本性がばれるさ」
 狭い船室の片隅で、しっかりとフリーダーの手を握って、レニーは優しく囁き返した。
「悪ぶっているくせに実は親切で、世間知らずのバカ娘のためにお金を埋めておく人もいるしね」
 フリーダーは苦笑して、空いた手で目をこすった。
「捕まると金は没収される。 サツよりは君にやりたいじゃないか」
「釈放された時のために隠しておくわよ、普通は」
「そうか、やっぱり俺は君に惚れてたのかな。 どう思う、兎ちゃん?」
「べた惚れだったと思うわ、狼さん」
 二人は首を伸ばしあって、綿毛のようにふんわりとキスした。


 
 フリーダーにはともかく、妊娠中のレニーには親切にしてくれる奥さん達のグループがあった。 うまく旅券を手に入れた人たちの共通点は一つ。 運がよかったということだけで、中身は千差万別だった。 見るからに裕福そうな夫婦もいれば、痩せて弱りきっている老人もいる。 グループの奥さんたちは親身になって、困っている人たちの面倒を見ていた。
 その一人と、レニーはデッキでよく話した。 船の上ではあまりすることがなく、みんな暇を持て余していたのだ。
「向こうに着いたら移民管理局に出頭して、それからしばらく隔離されるのよ」
「隔離?」
「そう、病気を持ち込むといけないから、半月からひと月ぐらい、収容施設に入るの」
「よくご存じね」
 レニーが感心すると、メッツラーというその夫人は、張りのある明るい目を海に向けた。
「おばと従姉妹が、あちこちに移民して手紙をくれたから。 従姉妹のリュシーは運がよかったわ。 アメリカに移住できたの。 私がメキシコに着いたら、国境まで来て差し入れを渡してくれるって」
 国境…… ヨーロッパにいるときは、呪わしい響きだったその言葉。 今のメッツラー夫人には、これからの生活を確かなものにしてくれる希望の象徴に思えるようだった。
 


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