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国境U-2


 海を進むにしたがって気温は高くなり、レニーはコートをトランクにしまった。
 初めて大陸の影がうっすらと見えてきたとき、乗客たちは声をかけあって甲板に集まり、一塊になってじっと眺めた、
 みんな黙っていた。 静かに、期待と不安の入り混じった表情で、自分たちを受け入れてくれた国の長い海岸線を、むさぼるように見つめ続けていた。


 上陸してからは、メッツラー夫人の言った通りの手続きが待っていた。 旅券の審査、身体検査、それに、今後どういう職業に就きたいかの希望調査もあった。
 検疫所に入れられている間、人々はあちこちに手紙を書いた。 金を払って国際電話をかけている者もいた。 間もなく、新生活が始まる。 みんなその準備に忙しかった。
 頼る知り合いのないレニーとフリーダーは、寄り添ってスペイン語の勉強を続けた。 参考書はパリで買った古本だ。 言葉は大事だと、二人ともわかっていた。 ドイツ系やユダヤ系移民に歓迎されないなら、現地に一日でも早く溶け込んで自力で生きていくしかないのだ。

 ようやく検疫期間が過ぎて、一行が国内を自由に出歩ける時が来た。
 メキシコは、七年ほど前にラサロ・カルデナスが政権を取り、念願の石油国有化を果たしていた。 そのため国は順調に経済発展を続け、人々の表情は明るく、失業率も減っていた。 メキシコは働き手を必要としていたのだ。
 メッツラー夫人の夫は、もとミュンヘン大学の助教授をしていた縁で、モレロス州立農業学校の講師をすることになった。 すぐ職が見つかって、夫人はほっとしていた。
「うちの人は、たまたま母親がスペイン人でね、ここの言葉が話せるの。 運がよかったわ」
「うちは、食料品屋の店員に決まったんです。 メキシコシティーの」
 レニーは慎ましく言った。 その店の持ち主で実業家のヨアヒム氏は、半世紀以上前に農地開拓のため移民してきたドイツ人の息子で、農機具の販売で成功し、今では実業家として様々な事業に手を広げていた。 その一つが、農家から仕入れた材料で作ったジャムやシロップ、小麦粉などを幅広く売るという商売だった。
 求人を見て面接に行ったフリーダーは、げじげじ眉の下から鋭い灰色の目にじっと観察されてたじろいだ。 最初、その視線は不機嫌そうだった。 これは駄目かとあきらめかけていたところ、ヨアヒムは不意にデスクの上から大きめの事務用封筒を取って、フリーダーに渡した。
「店で扱っている商品の名前を、スペイン語とドイツ語で書いておいた。 商品名と値段を早く覚えられるようにな」
 その瞬間、フリーダーは柄にもなく目頭が熱くなったと、戻ってきてからレニーに話した。





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