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国境 13


 

 パリの夜が美しく感じられたのは、レニーがここに来て初めてだった。
  戦争の足音がすぐそこまで来ているのに、パリはまだ賑やかで落ち着きがなく、人々の陽気なざわめきで繁華街はむせ返っていた。
  フリーダーはレニーを中級のレストランに案内した。 もう入口近くに用心深く座る必要はない。 2人は堂々と奥に席を取って、軽い会話を交わしながら、鶏の丸焼きとサラダとワインという豪華なディナーに舌鼓を打った。
  楽しく、くつろげるはずだった。 もう警官の不審尋問を恐れなくてもいいし、常に耳をそばだてて、逃げ出す準備をしていなくてもいいのだから。
  だが、2人の周りの空気は湿っていた。 フリーダーの気のきいた冗談に、レニーは微笑したが、声を出して笑う元気はなかった。 フリーダーの方も、何か勝手が違う様子で、早口で次から次へと話題を繰り出していたかと思うと、唐突に黙り込んだ。

  ささやかな祝賀会は、成功とは言えなかった。 2人は無口になってレストランを出ると、黙ったまま、マロニエの並木道を歩いた。
  フリーダーは痩せたようだ、と、後ろ姿を見ながらレニーはようやく気付いた。 旅に出ると言ったフリーダー。 楽な旅行ではなかったらしい。 私も病気やなにかでやつれているかな、とレニーは思い、肩をすぼめてコートの前を合わせた。
  そのとき、少し前を歩いていたフリーダーが、不意に立ち止まった。 ちょうど公園の入口に差しかかるところで、うっそうと木が茂り、人通りがまばらになっていた。
  レニーもつられて足を止めた。 フリーダーの様子がいつもと違う、と思った次の瞬間、いきなり彼の腕が伸びて、レニーを抱き寄せた。
  レニーの頭がしびれた。 どんなに会いたかったか。 どれほど絶え間なく彼のことを思い出していたか! だがその想いを、声にも態度にも表す勇気がなく、レニーはただじっと目を閉じて、フリーダーの胸に寄りかかっていた。
  やがて激しく唇が重なった。 むさぼるようにキスしながら、フリーダーの手は次第にレニーの体を下に下がっていった。
  その手が、脇でぴたりと止まった。 目をつぶったまま、レニーは複雑な思いで次の反応を待った。
  男の手は、レニーの腹部に回り、何度も撫でて大きさを確かめた。 それからフリーダーは、まるで幼児にするようにレニーの脇に腕を差し入れて持ち上げると、全身で抱きしめた。
  熱風のような息遣いが、レニーの耳元をかすめ過ぎた。
「俺の子だ。 そうだろう?」
  レニーは固く口を結んだ。 フリーダーは軽く腕の中の彼女を揺すり、ぎゅっと頬を重ねた。
「そうに決まってる。 子供は実の親が育てるのが当然だ。 メキシコへ行ったらすぐ仕事を見つけるよ。 堅気の長続きする仕事を。
  家を建てような。 子供には遊べる庭が必要だ。 俺は頑張る。 だから……」
  想像もしなかった話の展開に、レニーはついていけなくて、身をもがくと男の腕から離れた。
「私は責任を取れなんて言ってないわ。 わからないの? あなたはもう自由なのよ。
  住むところも、仕事も、恋人も、自由気ままに選べるようになるのよ。 3日経って『グリフィカ号』に乗れば」
「俺は自由じゃない」
  フリーダーは静かに言った。
「ずっと縛られてた。 たまらなく欲しいものはあったが、手に入らなかった。 俺はいつもそうなんだ。 要領がいいくせに、本当に欲しいものには絶対手が届かないんだ」
「私はもう縛らないわ。あなたは本当に自由なのよ」
  レニーは苦い思いを噛み殺した。
「この子は、男でも女でもたくましく育てるつもり。 私の受けたような役立たずのお嬢様教育じゃなく、自分の力で未来を掴み取っていけるような勉強をさせる。
  フリーダー、ずっと苦しかった。 あなたの足手まといになっていた自分がいやだったわ。 今でも大して立場が違うわけじゃないけど、メキシコに着いたら、どんなことをしても子供を一人で育て上げるわ」
  手を握りしめたまま、フリーダーは低く呟いた。
「知らない土地で一人は大変だよ。 助け合って生きようよ」
  レニーはたまらなくなった。 首に手を回して抱きついて、彼の匂いを胸一杯に吸い込みたいと願った。 今思えばはるか昔、大好きな父の腕に飛び込んだときのように。
  その代わり、レニーはそっと手を引っ込めた。
「いいえ、それはできないわ」
  レニーは怖かった。 なくてはならない人になった後で、フリーダーが去っていくことが。 レニーは一度フリーダーを失ったのだ。 またあの思いをするのは耐え難かった。

  フリーダーは手を離し、立ち尽くしたまま、顔を上げて空を見上げた。 どんより曇っていた夜空はところどころ晴れ間が覗いて、少しずつ星が見えていた。
「死んだら、人はどこへ行くんだろう」
  唐突な問いにも、心がしびれていて驚かなかった。 彼が握っていた左手をそっと右手で撫でながら、レニーはぎこちなく答えた。
「天国でしょう。 もし存在するなら」
「自殺した人間は罰として永遠に闇の中をさまようと、子供のときに聞かされた」
  レニーは激しく胸を突かれて、神経質に撫でていた手を止めた。


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