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国境 11


 

 ローゼン医師は地域社会で力があるらしく、社会奉仕団体からレニーの汽車賃まで出させることに成功した。 深く感謝の思いを述べて、レニーは緊急入院から2週間半後に、すっかり細くなった体をもてあましながら、久しぶりに表通りへ出た。
  後10日間は大手を振って道を歩ける。 苦いような、不思議な気分だった。 もちろん心細かったし、フリーダーを失ったことで胸に埋めようのない穴が口をあけたのは事実だが、初夏の息吹の中で、レニーは少しずつ本来の若さを取り戻しつつあった。
 
  警察署に立ち寄るのは、滞在許可が残っていても勇気が要った。 だが、レニーがおそるおそる中を覗くと、窓際でくつろいで談笑していた警官たちのひとりが、急いで上着のボタンを止めながら近づいてきた。 ずんぐりしたその姿に、レニーは見覚えがあった。
  ぎこちなく、レニーは警官に問い掛けた。
「「ビーダーマイヤーさんですか?」
  警官はうなずいて、にっこりした。 すると、いかめしい顔がなごんで、親しみの持てる表情になった。
「よかったね、元気になって」
  そして、低い声で付け加えた。
「俺たちだって、弱い者いじめは好きじゃないんだよ。 だが、国が非合法の亡命者だらけになるのも、また困るしな」
  レニーは小さくうなずいた。
「ありがとうございました」
「これからは気をつけなさいよ。 2度目に掴まると前科がついてしまう。 わたしが知恵をつけるのも何だが、滞在許可が切れる前にパリへ行くといい。 あそこはどうにか暮らしていけるそうだ」
「ええ、そうします」
  2人は握手して別れた。 ビーダーマイヤーの職務を超えた親切は、レニーの胸に長く残った。

  背筋を伸ばすと、レニーは再び歩き出した。 誰から生きるエネルギーをもらったんだろう。 もちろんフリーダーだ。 だからどんなに辛くても、レニーは彼の言葉通り、フォーゲル農場に行って、杭の下を掘ってみるつもりだった。 そして彼の別れの言葉をしっかり心にしまおうと思った。

 周りに人影がないことをよく確かめて、レニーは農場の外れにやってきた。 そこには内側からはみ出した牧草がカーブを描いて生えていて、地面は柔らかかった。
  そばに落ちていた木切れで大まかに堀り、後は手を使って土を掻き出した。 すると、厳重に小包用の油紙を巻いた包みが見つかった。
  疲れたレニーは、柵に腰かけてその包みを開いた。 だが、中身が見えたとたんに慌てて閉じ、バッグに突っ込んで急ぎ足で道を遠ざかった。
  包みに入っていたのは手紙ではなく、くしゃくしゃの2つ折りになった紙幣の束だった。


 短い夏は気がつくともう秋に差しかかり、アルプスの高嶺には白い冠雪が目立つようになった。 だがレニーが山を飾る初雪を見ることはなかった。 彼女は既に、ずっと西の大都会、パリにいた。
  パリは昔から、亡命者の吹き溜まりだ。 ヒットラーのユダヤ排斥政策のせいで国を捨て、ヨーロッパを流木のように渡り歩く無国籍者たちは、最後にはパリに流れ着くと言われている。 レニーもなんとか、この古い都に入ることが出来た。
  思いがけずフリーダーが残してくれた大金を、レニーはほとんど使わないで残していた。 そうできたのは、ひとえにフョードル・カリンスキー一家のおかげだった。

  パリへ出てきて間もなくのことだった。 、レニーはマリカというポーランド系ユダヤ人と同じ部屋に住んで、部屋代を半分にしていた。 マリカは間もなく、アルバイトと称して、よちよち歩きの幼児を部屋に連れてくるようになった。
  それだけならいいのだが、マリカは派手好きで子供嫌いという困った性格で、預かった幼児の面倒をまるで見ず、始終出歩いては他の稼ぎに精出していた。 結局、部屋で目立たないように編物の内職をしているレニーが、子供の世話をすることになってしまった。
  3週間後、子守りの賃金を受け取った直後、マリカは姿を消した。 同じポーランド系の男と駆け落ちしたという、もっぱらの評判だった。 不意に子守りを失って慌てた子供の両親が、今度は幼児のワーニャがなついているレニーに白羽の矢を立て、彼女を世話係として雇うことにした。 亡命者だから安い賃金でいいというのも、魅力だったのだろう。

  大きな菓子屋を2人で切り盛りしているカリンスキー夫妻は、なかなか信頼できる子守りに恵まれなかった。 一方レニーはマリカを失い、安全で安く泊まれる部屋をどう見つけたらいいか途方に暮れていた。 利害がぴったり一致して、夫妻は住み込みの上品な乳母を、レニーは清潔な小部屋と安定収入を得ることとなった。


「あなた、ちょっと太ったんじゃない?」
  再び秋が深まってきた10月、たっぷり太っているカーチャ・カリンスカヤ夫人に言われて、レニーは表情を硬くした。
「ここのお宅の食事がおいしいですから」
「まあ、それならいいけどね」
  カーチャ夫人はご機嫌で、つやつやした毛皮に包んだ体を、爪先立ちでくるりと回してみせた。
「どう、これ? 亡命者から安く買ったんだけど。 見て。 本物のミンクよ」
「見事ですね」
  感情を押さえて、レニーは静かに答えた。 母の毛皮もこうやって、似合わない人に買い叩かれてしまったんだろうなと考えながら。 夫人はふと動きを止め、小さい目でレニーをつくづく眺めた。
「ほんと太ったわ。 前はがりがりだったのが、肉がついて、美人になった。 ちょっと心配ね」
  レニーは瞬きした。 夫人は少し考えていたが、急に言った。
「あなたはいい人よ。 息子もなついてる。 でもはっきり言って、きれいすぎるわ。 パリに長居してごたごたに巻き込まれるより、ちょっと苦労してもメキシコで自由に暮らしたほうが、長い目で見たらいいんじゃないの?」
  メキシコ? 唐突に出てきた遠い国の名前に、レニーはぴんと来なかった。 ぼんやりしているレニーを、じれったそうに夫人がせき立てた。
「もしかして知らないの? それじゃよかった。 教えてあげられて。
  私たちロシア人はね、ナンセンさんのおかげで旅券がもらえたからこうしてパリに住んでられるの。 だから旅券とか永住許可の話には敏感なのよ。
  あのね、明日、メキシコ大使館で2百枚だけ移住許可証を発行するんだって。 旅券はただだけど、メキシコ行きの船の切符は自腹。 お金、持ってる? もし足りなかったら、私が貸してあげるわよ」

  夫がレニーに心を惹かれたら大変というカーチャ夫人の疑心暗鬼から出た提案だったが、レニーにとって、これは奇跡に近かった。 明日! もう目の前じゃないか。 今すぐ並びに行って、やっと買えるかどうか。 考えるより早く、レニーの足は道へ飛び出していた。

  メキシコ大使館は混乱を恐れて、ぎりぎりまで許可証交付を発表しなかった。 だからレニーは、あっという間にできた長蛇の列の、前から4人目という、信じられない幸運を手に入れた。
  レニーはその幸運を、目一杯使った。 自分一人分だけではなく、家族の分として、もう一枚買うことに成功した。


 
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