表紙へ

国境 10


 近く一斉手入れがあるという噂は、だいぶ前から流れていた。 だからレニーは用心して最小限の必要品をいつも持ち歩いていて、そのおかげで、フリーダーが緊張した表情でキャバレーの楽屋に飛び込んできたときも、そう慌てずに話を聞くことができた。
「ガサ入れだ」
 フリーダーは周囲に目配りしながら鋭く囁いた。
「もう部屋には帰れない。 ここにいるのも危険だ。 すぐ行けるか?」
「行けるわ」
 連れていってくれるんだ――それだけで、涙が出るほどうれしかった。 朝から頭が重かったが、そんなことは意識から飛んでしまった。 レニーはトイレに行くふりをして、さりげなく裏口から『かがやきの世界』を出た。
 外は4月の末で、金色のミモザが咲き出していたが、レニーたちが目指すのは、まだアルプス越えの寒風が吹き降ろすスイス国境だった。

 フリーダーは、警備が手薄な国境線を実によく知っていた。 何度もくぐり抜けたことがあるらしい。 辺りが漆黒の闇になってから、レニーは黒っぽいスカーフで顔を覆い、心臓をとどろかせながら懸命に草の上を走った。 必死にフリーダーの後をついていった甲斐があって、無事にスイスへ逃げこむことができたが、途中で雨に遭い、ずぶぬれになってしまった。
 布のバッグを手に持ち、ぬかるみを踏みしめて歩きながら、レニーはまず悪寒を覚え、体の節々が痛み、次第に足から力が抜けていくのを感じた。 やがてにわか雨は止み、明るい陽射しが道を照らしたが、レニーの寒気は和らがず、体の震えをフリーダーに隠すのがやっとだった。
 そのうち、かっと全身が火照ってきた。 熱が出たのだ。 よろめく足を立て直しながら、レニーは自分に愛想の尽きる思いだった。 本当に私は役立たずの足手まといだ。 こんなときに、こんなところで……
 もう10分歩こう、もう5分我慢しよう、あの角の小さな木のところまでならたどり着けるだろう――レニーは小刻みに目標を作って、発熱から1時間以上歩きつづけた。
 
 2人の前に、不意に街が開けた。 車のクラクションの音が響き、話し声が行き交う。 もう目が開かない状態で、レニーは耳だけで雑踏を聞き分けていた。
「おい、君」
 横柄な声が前方から響いてきた。 この自信たっぷりな話し方は官憲以外の何者でもない。 麓の町にやっと着いたと思ったら、レニーたちは最悪の人間に発見されてしまったのだった。
「ひどい顔色だな。 おい、君!」
 必死に瞼をこじ開けて、レニーはフリーダーを探した。 彼は既に数十メートル先を歩いていた。 振り向かないし、何の関心も示さない。 置いていかれたのだと、レニーにはすぐわかった。
 当然なんだ…… レニーはよろめいた。 体力だけでなく、気力も尽きた。 ぐらっと倒れかかったレニーは皮肉にも警官の脚にぶつかって、顔から道路に落ちるのを免れた。


 覚えていないが、気絶したらしい。 意識が戻ったのは、真っ白な部屋の中だった。
 ここって拘置所じゃないな、とレニーは思った。 拘置所なら暗いし、窓に鉄格子がはまっているはずだ。
 それだけで、また意識が遠ざかった。 次に目覚めたとき、眼鏡をかけた若い男がレニーを覗きこんでいた。
 レニーはどきっとして身を縮めた。 男は安心させようと優しい笑顔を浮かべて、レニーに話しかけた。
「大丈夫。 役所にかけあって君の臨時滞在ビザを1ヶ月分出してもらったから」
 まるで事情がわからずにぼんやりしているレニーを見て、男は噛んで含めるように説明した。
「僕はエリック・ローゼン。 医者で、ユダヤ人なんだ。 だから君を引き取った。 最初に助けたのは警官のビーダーマイヤーだがね」
 警官…… レニーは目をぎゅっとつぶり、不意に前に立ちふさがった肩幅の広い姿をはっきり思い出そうとした。
「がっちりとした、四角い顔の?」
「そうそう」
 ローゼン医師の顔がほころんだ。
「見かけは怖そうだが、あれで案外人が良くてね、君を見殺しにできなかったらしい」
 警官が…… あまりの意外さに、レニーはまた意識が混濁しそうになった。
「あの、でも私……」
「もう少し元気になったら、礼を言いに行くといい。 滞在許可が出たのは、彼のおかげなんだから」
「ビーダーマイヤーさんは、他に誰かいたと言いましたか?」
 ローゼンは首をかしげた。
「いや。 仲間が心配かい? この辺にいると危険だから、きっとジュネーヴに行ったんじゃないかな」
 レニーの視線が床に落ちた。 フリーダーのためにほっとした気持ちもあったが、それより遥かに、胸の奥に生まれた空洞が大きかった。
 フリーダーは思いも寄らぬ親切を尽くしてくれた。 だがとうとう、レニーの元を去っていってしまった……。

 それが最後の別れだと、レニーは思っていた。 しかし、大分体が快復してきた3日後の午後、フリーダーからローゼン医師の病院に電話があった。 ローゼンに呼ばれて、受付で受話器を取ると、機械を通して妙に金属的な声が聞こえてきた。
「レニー? フリーダーだ。 これから旅に出る。 近くにフォーゲルという農場があるんだが、そこの柵の右から4番目の杭の下に手紙を埋めておいた。 必ず掘り出して読んでくれ。 じゃ、これで」
 レニーはゆっくり受話器を置いた。 ええ、と一言だけしか声を出せなかった自分を呪いながら。


 
表紙目次前頁次頁
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送