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国境 7


 非難の言葉が降ってくるのを、レニーは覚悟して待ち受けた。 しかし、テレーゼは他の人のように責める気はないようだった。
「きっと彼は、一人でいるのに耐えられなかったのね。 特に夜が。
  フリーダーは弟と2人で逃げてきたのよ。 オットーとかいったわ。 その子は、とてもかわいくておとなしい人だったけど、こんな生活に我慢できなかったらしくて、車に飛び込んで死んでしまったの。 2ヶ月ちょっと前に」
  2ヶ月ちょっと前…… レニーは剣で刺されたように、胸に恐ろしい痛みを感じた。 それでは2人が会ったのは、彼の弟が自殺して間もなくだったのだ。 きっと何か慰めが欲しくて、敷居が高く普段は寄りつかない亡命者クラブに姿を現したのだろう。 ところが、そこで拾った女までが自殺を企てた。
  レニーは偶然に、フリーダーの弱みにつけこむことになってしまったのだ。

  テレーゼの話を聞いた直後から、レニーはフリーダーを違った目で見るようになった。 彼は美貌と才気を利用して金を作り、信頼を裏切り、しゃにむに周囲をなぎ倒して生きてきたように見えるが、それはもしかすると必死のあがきだったのではないか。 生き残るための生存競争を弟はあきらめたが、フリーダーはあきらめなかった。 それだけ生命力が強いことの証ではないのか……
 平和な社会では許されないことでも、戦時下ではまかり通る。 フリーダーは一人でやるから非難されているが、もっと大規模に、もっと非情にやっている国がいくらもある。 やりきれない。 矛盾だ。
  「私だって彼のおこぼれをもらって生き延びてるんだ」
  もう靴に気を使わずに早足で急ぎながら、レニーは歯を食いしばって呟いた。 フリーダーを非難する資格は、自分にはないとつくづく思った。
 
  部屋に戻ってベッドを見ると、また別の感慨があった。 これはオットー・ライナーホーフの使っていたベッドだったのだ。 殺風景な部屋には彼を思わせる物は何もなかった。 おそらくフリーダーがすべて片づけてしまったのだろう。 だがこのベッドだけは、なぜか残しておいた……
  「他に移す前に私が来てしまったからだ」
  そうに違いないと、レニーは思った。
 
  キャバレーは夜の仕事だ。 その晩は特に、酔った将校たちがいつまでもクダを巻いてなかなか帰らず、明け方近くまで居座ったため、レニーが裏口からようやく家路についたときは、既に朝の7時を過ぎていた。
  疲れた。 軽いバッグなのに、持つ手が小刻みに震えて止まらない。 こんな夜ばかりだと腱鞘炎になりそうだった。
  ホテルの前までたどり着いてドアノブに手をかけたとき、あることに気付いてレニーの動作が止まった。
  部屋に明かりがついている。

  春になったので、空はそろそろ白みかけていた。 そんな中でぼうっと灯る窓の光は侘しい雰囲気だった。 レニーは急いで中に入ると階段を上がり、鍵を開けた。
  思ったとおり、中にはフリーダーがいた。 珍しく机に座って何か書いている。 レニーを見ると、青緑色の瞳がきらりと光った。
「朝帰りかよ」
「空軍の将校さんたちがなかなか帰ってくれなくて」
「ああ」
  フリーダーの唇が歪んだ。
「空軍はもと貴族のお坊ちゃん方が多いんだ。 だからやりたい放題だ」
  ドアを閉めると、レニーは何気なく彼に言った。
「朝御飯まだでしょう? 角の肉屋でソーセージ買ったんだけど、食べる?」
  返事はなかった。 上着を脱ぎながらレニーが振り返ると、フリーダーが顔を上げてじっと見つめていた。 
  眼が合ったとたん、その視線は揺れ、横にそれた。 低い、ぶっきらぼうな声が答えた。
「棚の一番上の缶にココアが入ってる。 飲みたかったら出しな」
 
  いつもよりちょっぴり豪華な朝食で、しかも2人で食べたのでおいしかった。 レニーが食器を片づけていると、フリーダーがそばに寄ってきて話しかけた。
「あのな、ちょっと……」
  珍しく言いにくそうなので、レニーは好奇心を起こした。
「なに?」
「あんた器用だし、字もうまそうだから、代筆頼まれてくれないか?」
  驚いて、レニーは眼をぱちぱちさせた。


 
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