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国境 6


「楽譜がないと…」
  レニーは困って、口ごもった。
「暗譜してるの何かあるだろう。 トルコ行進曲とかシューベルトの子守唄とかさ」
  明らかにバカにしている雰囲気なので、レニーはちょっとむっとなって、大好きなドビュッシーの『月の光』を弾きだした。 最初は指が堅かったが、次第にほぐれると共に勘が戻ってきて音楽らしくなった。
  間もなくダンサーたちがピアノに近寄ってきた。 楽曲以外の雑音が消え、ごみごみした酒場は静けさを取り戻した。
  レニーは、またピアノが弾けるという束の間の幸福にひたって、人見知りをする余裕がなかった。 だから指が緊張を忘れて鍵盤を巡り、繊細で自然な響きをつむぎ出して、猥雑な空間を小さなコンサートホールに染め替えていった。

  柔らかい余韻を響かせて曲が終わったとき、残ったのは沈黙だった。 それからダンサーたちが、目がさめたように一斉に拍手した。
「すごい!」
「胸が痛くなっちゃった!」
「ねえ、どうしたらそんなに泣きたいような音が出せるの? クルトがさっきまで弾いてたピアノと同じだなんてとても思えないわ」
  クルトと呼ばれた小男は、禿げかかった頭を3度ほど平手で叩き、顔をしかめて呟いた。
「あんたなあ、ここで弾くようなクラスじゃないよ。 ちょっと……線が細すぎる」
「大きな音も出せますよ」
  レニーは大胆になって、『展覧会の絵』をがんがん弾きはじめた。
「わかった。 わかったよ」
  クルトは顔を引き締め、指をパチンと鳴らした。
「あんたぐらいだと初見で弾けるだろう。 レック、『ミネットの寝言』のスコア、持ってきてやれ」 

  こうして、次の仕事はキャバレー『かがやきの世界』でのピアノ伴奏となった。 こういう店にはこれまで入ったことがなかったので、レニーは最初、身構えていた。 裏の世間を知り尽くしている店の人たちにとって、自分なんかバカな小娘にすぎない。 手玉に取られたり、変なところに連れ込まれたりしないようにしなくちゃ。
  だが、そのうち次第にわかってきた。 たしかにしたたかな人間もいるが、大部分のダンサーは気風がよく、親切だった。 初めのうちレニーを遠巻きにしているようだったのは、彼女がフリーダーの『女』だと考えていたためらしい。
「フリーダーはやたらもてるのよ。 でも自分から面倒見たなんて初めて。 それでレニちゃんは特別扱いだってことで、みんなちょっといじけてたの。
  でも、そうじゃないらしいわね。 あんた、彼の妹分なんだ。 きっと誰かに頼まれたのね、世話してやれって」
  あいまいな微笑で応えながら、レニーは、一番不思議なのはこの私だ、と心の奥で呟いていた。

  あの晩、フリーダーと集会場を出てから、潮が引くようにレニーの周りには仲間がいなくなった。 フリーダー・ライナーホーフの悪評は、彼が自分でも言ったとおり、ユダヤ人亡命社会では鳴り響いていて、彼と付き合おうとする人間や、まして信頼する相手などは、皆無に等しかった。 フリーダーが人を騙したという噂は始終語られたが、人助けをしたなどという話はかけらもなかった。
「私からだってピンはねしていいはずよね」
  靴が磨り減らないようにゆっくりと歩きながら、レニーは自分に問いかけた。
「少しは取ってるのかもしれないけど、部屋にただで住まわしてくれてるし、『かがやきの世界』の給料は悪くない。 そんなに凄腕の、ええと何だっけ、そう、スケコマシなら、私なんかいっぺんに……」
「レニー?」
  突然車道を隔てた向かい側から呼びかけられて、レニーは我に返った。 灰色のワンピース姿の若い娘が、軽い足取りで車道を突っ切ってきて、レニーの前に立った。
「久しぶり」
「テレーゼ」
  懐かしいのと意外なのとで、レニーは息を弾ませた。 もう2ヶ月以上、昔の仲間と話していない。 レニーは会話に飢えていた。
  だがとたんにテレーゼに言われて、レニーはひるんだ。
「あなた、フリーダー・ライナーホーフと一緒にいるんですって?」


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