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国境 5


 レニーは翌日も同じ席に座って呼び出され、同じようにきまり悪そうにカードを抜いて、無意識にだが大魔術師を大いに引き立てた。 ハイネッケはご機嫌で、興行が続く1ヶ月の間、レニーをサクラの一員に本採用することに決めた。
「水曜と土曜、週に2回来なさい。 ただし、毎回違う服を着て、髪型も変えること。 たまには眼鏡なんかもいいな」
「服はそんなに持ってません」
  レニーが固くなって答えると、ハイネッケは笑った。
「ここは寄席だよ。 衣装なんかいくらでもある。 安く借りられるように、わしから言っておこう」

  1ヶ月はあっという間に過ぎた。 最後までレニーはインチキに慣れることができず、恥ずかしそうにしていたが、それが逆に初々しくて手品を鮮やかに見せるという皮肉な結果を生んでいた。
  その間、フリーダーはほとんど下宿に帰ってこなかった。 だからわずかな稼ぎでも、レニーには貴重な食事代と交通費になった。
  できるだけ暖房費を節約するためと、部屋に一人でぽつんといて不安になるのを避けるために、レニーは仕事のない日もよく散歩に出かけた。 風のないときは公園に行き、陽だまりのベンチに座る。 そうして辺りを眺めると、灰色の木々にもわずかに芽が動き出し、春の気配が増していくのが感じ取れた。
  ウィーンはまだこんなに平和だ。 だが故郷のボンでは……思い出すまいとしていた荒々しい光景が脳裏にひらめき、反射的にレニーは立ち上がった。 かかえられるだけの荷物を両腕に抱いて、よろめきながら走り、道の角で最後に振り返ったとき、大好きだった白い家は巨大な松明〔たいまつ〕と化して、黒い夜空に火の粉を振り撒いていた……


 ハイネッケが地方巡業に行き、収入源が途絶えた2日後、フリーダーが不意に帰ってきて、レニーに言った。
「金持ちのお嬢さんて、楽器を弾くんじゃないのか?」
  レニーの眼が定まらなくなった。 ピアノはできる。 もう長いこと楽器に触れていないから下手になっているとは思うが、練習すれば…… ただ、致命的な事実があった。 はにかみ癖だ。 聴衆に注目されていると、手が氷に浸かったようになって動きが止まってしまう。 発表会で2度恥をかいた後は、絶対に人前で弾かなくなった。
「私は……だめ」
  レニーがおずおずと言うと、フリーダーはにやっとした。
「じゃ、裸踊りするか?」
  あっという間に鳥肌が立った。 ピアノでつかえて立ち往生するよりよほど恐ろしい。 レニーは慌てて、フリーダーの袖を掴んだ。
「あの、ピアノなら……しばらく触ってないけど、6歳から習ってたから」
「そう素直に言えばいいんだよ」
  フリーダーはウィンクした。
「あのな、手を見るとわかるんだ。 指先が両手ともそういう風に平らになってるのは、相当ピアノを弾きこんでる証拠だ。 左手の指だけ反ってるのはバイオリニストで、右手の爪だけ長いのはギタリストってわけ」
  確かにそうだ。 レニーは唇を噛んだ。
「でも私、あがり症で」
「じゃ、キャバレーのピアノ弾きはどうだ? 衝立で客から見えなくしてやるから」
  ポピュラー音楽はやったことがないが、楽譜を見せてもらえれば何とかなるだろう。 レニーは承諾した。 というより、やるしかなかった。

「ウィーンのキャバレーはドイツのほど派手じゃないが、客は耳が肥えてる。 ちゃんと弾けばピアノにもチップをくれる」
  そこでフリーダーは苦笑した。
「衝立越しじゃ無理かもな。 慣れたら顔を出すといい。 指名が殺到するかも」
  とんでもない。 レニーは無意識に首をすくめていた。
  2人が向かったのは、例の寄席の斜め向かいにある建物で、キャバレーは地下にあった。 時間が午後の2時半なので、まだ店は開いておらず、練習着をまとったワンサ(=バックで踊るダンサー)たちが並んで稽古している最中だった。
  フリーダーを見ると、赤い顔でピアノを叩いていた小男が急いで立ち上がった。
「よう、ピアノ弾けるやつを探してきてくれたか?」
「この子なんだが」
と言って、フリーダーは背後に隠れるようにしているレニーを前に押し出した。 小男はくわえていたロリポップの棒をプッと吐き捨てて、苦い顔をした。
「おいおい、ここはお子ちゃまの遊び場じゃないんだぞ。 未成年じゃないのか、その子?」
「21よ」
  レニーは小さい声で抗議した。 フリーダーの方は平気で小男に言い返した。
「未成年? いつからそんなこと気にするようになった? 16の子にポン引きさせて、あげくに2人そろって豚箱入りになったのはどこの誰だっけ?」
「わかったよ」
  あきれたように両腕を曲げて上にあげると、小男はレニーにわざとらしくお辞儀した。
「それじゃどうぞ、お嬢ちゃん。 腕前を見せてもらおうか」


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