表紙

国境 4


 黒パンとチーズを並べ、ワインを戸棚の隅から引っ張り出しながら、ライナーホーフは尋ねた。
「まずは名前だ。 何ていうんだ?」
「レニー・ホルト」
  固くなって、レニーは囁くように答えた。 男はワインの栓を開けて、2つのコップにいい加減にそそいだ。
「俺はフリードリッヒ・ライナーホーフ。 女共はフリーダーって呼ぶ」
  レニーが何の反応も示さないので、フリーダーは物足りない様子だった。
「あれ、俺の名前知らなかった?」
「ええ」
「情けない箱入りだな」
  フリーダーは容赦なく言った。
「だから簡単に引っかかるんだよ」
  引っかかったつもりはなかったが、レニーは言い返さなかった。 フリーダーはパンを持ち上げてレニーを指し、厳かに言った。
「俺は元を取る主義だ。 働いてもらうぜ。 働かざる者、食うべからずだ」
  きっと情けない顔になったのだろう。 レニーの表情を読み取って、フリーダーは笑い出した。
「あら、私はお嬢様よ、下々のことは何も出来ませんわ、って顔してるな。 まあ任せとけって。 そういうご令嬢向きの仕事が、この世にはちゃんとあるのさ」


  きっといかがわしい仕事にちがいない、とレニーは覚悟した。 しかし、フリーダーがレニーを連れていったのは、場末ではあるが春を売る店ではなく、賑やかな寄席だった。
  前から3列目の一番右の席に、フリーダーはレニーを座らせ、耳打ちした。
「何が起こっても素直に従うんだ。 言うことをきかないと売り飛ばすぞ」
  だからレニーは、フリーダーがその場を外しても、椅子の端にちょこんと座って身を硬くしていた。 すると舞台にスポットライトが当たり、水玉の蝶ネクタイをした司会者が出てきて、高い声で紹介した。
「お待たせいたしました。 世紀の魔術師、当館の目玉、奇跡を起こす男、偉大なるハイネッケ登場です!」
  盛んな拍手が起こった。 偉大なるハイネッケは中肉中背の、歯を見せない笑顔を浮かべる男で、まずは小手調べにシルクハットから兎を出したり、ひょいと空中に放り投げたステッキを一瞬で消したりした。
  前振りが終わると、いよいよ本ネタの時間だった。 ハイネッケはトランプを取り出し、鮮やかな手つきで切ったり並べたりした後、透視をやると言い出した。
「決してインチキではないという証拠に、お客さんにカードを抜いていただきましょう。 ええと……その角のお嬢さん」
  スポットライトが舞台から降りてきて、客席を照らした。 急に眩しくなって、レニーは手で顔を覆った。
「そうそう、その手を上げているあなたです。 どうぞこちらへ」
  たちまちレニーは逃げ腰になった。 人前に出るのは何より苦手だ。 立ち上がって逃げ出しかけたが、とたんにフリーダーの脅し文句が蘇ってきた。
「さあどうぞ」
  舞台では急き立てている。 もう行くしかない。 覚悟を決めて、それでもおずおずと、レニーは舞台へ上がった。
  ハイネッケはきれいな円形にカードを並べて持ち、1枚引くようにうながした。 レニーはふるえる指で適当に抜いた。 だがそのとき誤って2枚取ってしまい、あわてて返そうとした。
  ハイネッケは腹話術師のように唇を動かさずにささやいた。
「バカッ。 2枚重ねて持っとけ。 どうせどれも同じだ」
  ぎょっとなったレニーがちらりと見ると、カードはどちらもダイヤの3だった。
  ハイネッケは声を張って、やさしげに叫んだ。
「さあ、お客様に見せてあげてください。 もちろんわたしには見えないように」
  からくりを悟ったレニーは、白けた顔でカードを客席のほうに向けた。 その間にハイネッケは素早くカード全体を取り替え、そのカードを派手に空中に振り撒いた。 手に1枚残っているのは、もちろんダイヤの3だった。
  客席は大喝采なので、仕方なくレニーも手を叩いた。 気をよくした大魔術師は、箱に入って舞台から忽然と消える奇術で退場するとき、またレニーに手伝わせた。
「箱には何の仕掛けもありません。 ないですよね、お嬢さん?」
  確かになかった。 ハイネッケが箱に入って蓋を閉じたとたんに底が抜けるのを除けば。 裏から見ると、ハイネッケがテーブルの下に落ちて、ふところから薄刃のナイフを出すのが丸見えだった。
  ナイフで何をしようというんだろう――レニーが好奇心でながめていると、なんと大魔術師は舞台に敷きつめられた密なカーペットを縦一文字に切り裂いて、その隙間から奈落にすべり落ちていった。 やがて下からモップの先で押すのがちらちら見えた。 数秒で、カーペットはもとの平らな表面に戻ってしまった。
  思わず笑い出しそうになって、レニーは口元に手を当ててうつむいた。 司会者が下手から出てきてレニーを客席に戻しながら、耳元で囁いた。
「最初としちゃ、まあまあだ。 また明日も来な」


 
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