表紙へ

国境 3


 男が行ったのは、亡命者たちがよく泊まる安ホテルだった。 入口は石段を5段ほど上ったところにあり、薄暗い電球が切れかけて、ついたり消えたりしていた。
  男がレニーの手を引いて入ると、形ばかりのカウンターの奥から、ナイトキャップ姿の女主人が顔を覗かせた。
「ちょっとライナーホーフさん、また連れ込み?」
  ライナーホーフと呼ばれた男は、軽く首をかしげて微笑んだ。 そうやると額に巻き毛が垂れかかって、高等学校の生徒のような雰囲気になるのを計算済みらしかった。
「またって、やだな、バウムさん、たった2度目ですよ」
「うちは慈善事業じゃないんですからね」
  ほつれたガウンの襟元をかき合せながら、バウム夫人はぶつぶつ言った。
「その人が前みたいに泊まり続けるんなら、2人分部屋代をもらいますよ」
  私は違う、とレニーが言いかけたとたん、視界をライナーホーフの大きな背中が遮り、陽気な声が聞こえた。
「奥さん、お願いしますよ。 やっと国境を越えてきた妹なんです。 疲れ切ってて、ほら、立つのがやっと」
  わざと体を斜めにして、ライナーホーフはレニーの腰を支えてみせた。
  バウム夫人は腕を組み、眉を片方持ち上げた。
「ふうん、この前は弟で、今度は妹ね」
「姉に見えますか?」
「黒い髪に茶色の眼の妹さん。 金髪のあなたとは似てないようだけど」
「後妻の子なんです」
  ライナーホーフはしゃあしゃあと言った。 バウム夫人は根負けして苦笑し、ついでにぶるっと身震いした。
「うう、今夜は冷えるわ。 連れてってもいいけど、他の下宿人に見つからないように。 ひいきしてるなんて思われたら困るから」
「はい、気をつけます」
  えらく素直な若々しい声で、ライナーホーフは約束した。

  彼の部屋は三階だった。 殺風景だが思ったより広く、部屋の端と端に2つのベッドが置いてあった。
  入口に近いほうのベッドを顎でしゃくって、ライナーホーフはそっけない調子で言った。
「そこに寝ろ」
  は? 血を失ったせいか頭がぐるぐる回るような気分で、レニーはきちんと整頓されたベッドを眺め、それからライナーホーフを見た。
  青年は上着を脱いでハンガーにかけ、3つに折ってまくり上げていたワイシャツの袖を下ろして、これもハンガーに吊るした。
  彼がまったく関心を示さないので、レニーはおずおずとスリップ姿になり、毛布の下にもぐりこんだ。 しばらく使われていなかったらしく、冷たく湿った感触がしたが、すぐに体の熱で温まり始めた。
  これって何だろう。 この二枚舌男の愛人になったということなんだろうか。 レニーは考えに集中しようとしたが、とても無理だった。 心身ともに疲れすぎている。 寝るしかなかった。 死んだと思えば……何だってできる…… 間もなく意識は闇に溶け込み、消えていった。

  翌朝起きたときは、とてもまごまごした。 昨夜のことが不思議と記憶から飛んでいて、しばらく何も思い出せなかったのだ。
  朝の空気は一段と冷たくて、ベッドから降りたとたん、鳥肌が立った。
  窓際で、男が髭をそっていた。 金色の髪が、弱い日光を受けて透き通って見える。 彼が器用に使っている剃刀が目に入ったとき、レニーの心にようやく昨日の出来事が奔流のように蘇ってきた。
  顎の下までそり終わると、男は手のひらでそり残しがないか撫で上げて点検し、タオルで顔をぬぐってから振り返った。
「バカな女だ」
  あざけるような声が言った。
「血ってのはな、止まるんだよ。 うんと深く切り込んで動脈を切断すれば別だけどな」
  レニーは激しく身震いした。 初めて恐怖が体の底から突き上げてきた。
  ライナーホーフは手を腰に当て、半眼でレニーを見返していた。
「さて、これからあんたをどうするかだな」


表紙目次前頁次頁
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送