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国境 2


 食堂を出た男は、もう面倒な会話をする素振りさえ見せず、一直線に安っぽい連れ込み宿を目指していた。 いかにも世慣れた風情で宿帳にインチキなサインをする青年を、レニーは複雑な気持ちで見守った。
 
  部屋は二階で、階段から3つ目だった。 男はレニーを背後から押すようにしてさっさとドアを通り、不釣合いに大きなベッドに腰を下ろした。 そして、両腕を伸ばし、浮わついた高い声で言った。
「早く来いよ!」
  気おされて、レニーはのろのろと近づいた。 男はじれた様子で腕を伸ばし、彼女の手を掴んだ。 栄養が行き届いているから、力も強かった。 ぐっと引かれて、レニーはひとたまりもなく男の膝に転がり込んだ。

「さあさ、いい子だからね」
  まるで聞き分けのない子をあやすように、男は耳元で囁いた。 レニーは自分で脱ごうとしたのだが、男の器用な指先はあっという間にカーディガンのボタンを外し終えていた。

  それからは、無我夢中でほとんど記憶に残っていない。 覚えているのは、かちかちになって横たわっていたことと、何もしていないのに、
「逆らうなよ」
と文句を言われたことたけだ。

  意識の切れっ端が戻ってきたとき、隣りの男はすやすやと寝息をたてていた。 色白の肩に筋肉が盛り上がっているのが嫌でも視野に入る。 この太い腕に無理強いされなくてよかった、とレニーはぼんやり考えた。
  私も眠りたいな、とほんの一瞬思った。 安宿ではいつ亡命者の『駆り込み』があるかわからないから、熟睡することはできない。 こんな強そうな男の横にいれば、久しぶりに安眠できそうだ……
  何馬鹿なことを考えてるの! レニーは強く自分を叱り、右手をそろそろと伸ばして、バッグの中から、暗い電球に反射してぴかりと光る物を取り出した。 剃刀だった。
  首だけもたげて、レニーは男の様子を窺った。 ぐっすりと寝ているようだ。 左を下にして半ば影になった顔は、先ほどまでの凄みを失い、無邪気にさえ見えた。
 
  レニーの手が、ゆっくりと下がった。 できない。 彼を道連れにするなんて、とても無理だ。 こんなに大きいし、それに、わりと優しくしてくれたし。
  そう、意外だった。 クリスタの言う通りなら、相手の気持ちなんかお構いなしに自分だけ楽しむタイプだと思ったが、男はぶっきらぼうだとしても意地悪ではなかった。 せめて大人になって死にたいというレニーの最後の願いを、そこそこ叶えてくれた。
  男と女って、こんなことするんだ――レニーは笑いたい気分だった。 もうじき死ぬというのに、この妙な余裕は何だろう。 もう先のことを思い悩まなくていいからかもしれなかった。
  お礼に、そっとしておいてあげよう、とレニーは決めた。 死ぬのが怖いから誰かを道連れにしようなんていう考えが間違っていたのだ。 みんな死ぬときは一人なんだ。
  手首に剃刀を走らせたとき、痛いというより熱かった。 腕を毛布の外に出して、レニーは目を閉じた。 後どのぐらいで死ねるのだろう。 初めてだからわからないが、きっと2、3時間あれば……
  脈がずきんずきんと打った。 次第にレニーは意識が遠ざかるのを感じた。


  次に目を開けたとき、サイドテーブルの明かりが強くなっていて、ズボンをはき、コートを肩に引っ掛けた男が、ベッド脇にひざまずいてレニーの腕を強く引っ張っていた。
  間もなくレニーは気付いた。 引っ張っているのではなく、ズボンのベルトで堅く締め付けて出血を止め、ハンカチで手際よく傷口を巻いているところなのだ。 そうわかったとたん、レニーは激怒して飛び起きた。
「放っといて!」
  男はその抗議をまったく無視して、ハンカチの包帯を結び終わった。 それから不意に立ち上がり、一言も口を開かずにレニーの顔を押さえ、下の瞼を裏返して貧血かどうか調べようとした。
  レニーは抵抗した。 さっきはまったく逆らわなかったのに、今は両手でぶらさがるようにして、男の手を顔から離させようとした。 だが、男はレニーの怒りなど蚊に刺されたほども気にせずに目的を果たし、血の気が残っているのを確かめると、短い溜め息をついて手を放した。
  レニーは毛布で胸を隠した。 不意にどす黒い恐怖が頭一杯に広がった。 どうしよう、今夜できれいさっぱりお終いにするつもりだったから、下宿は引き払ったし、そのときたまった家賃まで渡してきてしまった。 もうすっからかんだ。
  男がたまらなく憎かった。 さっき無防備に横たわっていたときに、手にかけてしまえばよかったと思った。

  男は、すっと立ち上がると、コートを脇において、シャツから着なおした。 癪に障ることに、そういう何気ない動作までが格好よく決まっている。 レニーは惨めさを噛みしめながら、小さく唇を震わせていた。
  服を着終わった後、男はまたレニーに近づき、ハンカチの上から血が止まっていることを確認して、腕に巻いていたベルトを外し、腰に戻した。 そして、ぽつんと思いがけないことを言った。
「拘置所に入ると、ベルトを取られるんだ。 首吊りできないように」
  独り言のようだったし、返事する気になれなかったので、レニーは黙っていた。 男は横の机からレニーの脱いだ物を取ると、ベッドに置いた。 さっきの独り言と同じように静かな声が、レニーの耳に届いた。
「早く着て」
  意地になって、レニーは動かなかった。 気力が失せて動けなかったのかもしれない。 すると男は下着を手に持って、子供のようにレニーに着せ始めた。 あわてたレニーは、自分で身にまとった。

  レニーの身支度が終わると、男は彼女の怪我をしていないほうの手首を取って部屋を出た。 半ば放心状態で、人形のようにレニーは後をついて歩いた。 もう先のことは考えなかった。 引っ張っていってくれる人間のいる心地よさを味わいながら、レニーは黙って男についていった。


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